宗教・宗派についての説明です。

宗教カテゴリー:


神社神道系

宗派名 宗祖 本山 成立年
神社本庁
教え
神道とは日本民族の古来の習俗に由来する、自然崇拝・祖先崇拝を基調とした信仰を総称した言葉であり、神社神道には、キリスト教の聖書やイスラム教のコーランのような教典は存在しない(教派神道は除く)。出雲派教義を明治期遠ざけたため、そのしこりは今も存在している。
1956年(昭和31年)、神社本庁は、古来の伝統に立脚し、実践すべき規範として以下の「敬神生活の綱領」を発表した。なお、宗教法人としての「規則」は「神社本庁庁規」と呼ばれる。
神道は天地悠久の大道であつて、崇高なる精神を培ひ、太平を開くの基である。 神慮を畏み祖訓をつぎ、いよいよ道の精華を発揮し、人類の福祉を増進するは、使命を達成する所以である。
ここに綱領をかかげて向かふところを明らかにし、実践につとめて以て大道を宣揚することを期する
宗派名 宗祖 本山 成立年
石鎚本教 1946年(昭和21)
教え
石鎚山は古くから日本七霊山の一つとして名高く、日本霊異記には「石鎚山の名は石槌の神が坐すによる」とある。役小角によって開かれたと伝えられ、その後、寂仙・上仙・空海・光定といった高僧が修行した。以来、石鎚蔵王権現と称され、別当の前神寺(四国霊場64番)・横峰寺(四国霊場60番)のもとで、神仏習合・修験の道場として繁栄した。
また、朝廷・武家の崇敬極めて篤く、桓武天皇の勅願によって建立された前神寺には、文徳天皇・高倉天皇・崇徳天皇・後醍醐天皇など歴代天皇が納めた仏像や経巻が伝わる。興国3年(1342年)には後村上天皇が朝敵退散を祈願するために勅使を遣わしている。
明治になると、神仏分離によって前神寺と横峰寺は廃され、石鎚神社となった。前神寺の境内は石鎚神社の本社となり、横峰寺は西の遙拝所とされた。なお、前神寺は明治12年(1879年)、塔頭寺院の医王院と合併し、前上寺として復興した。明治40年(1907年)、旧称に復す。また、横峰寺は大峰寺として復興し、明治42年(1910年)、旧称に復した。
戦後は神社本庁に属して、別表神社に加列。同時に宗教法人石鎚本教を設立し、神仏習合の伝統に基づく教化活動を行っている。
宗派名 宗祖 本山 成立年
木曽御獄本教
教え
千三百年の昔より、御嶽信仰(御嶽山大権現)は、霊峰御嶽山を根本とする両部神道の修験にありました。登山参拝には百日間の*精進潔斎(ショウジンケッサイ)の制度があり、常人では大変困難なことであったため、多くはその里宮に参拝するのみでした。天明二年、覚明(カクメイ)行者が苦行の末、この制度を打破されたことにより、常人の登山参拝が可能になりました。そして寛政四年、普寛(フカン)行者が王滝口の参道を開道され、各地に御嶽信仰がひろめられました。
そののち、尾張国熱田の儀覚行者が宮丸講を組織して、中仙道を登拝されたのが講社の始まりとされています。明治二年、神仏分離の勅令により、「御嶽山大権現」が「御嶽神社」と改称され、国家管理となったため、講社は宗教行事を行うことができなくなりました。しかし、昭和二十一年、宗教法人令が施行され、神社も宗教として取り扱われることとなり、それまで離散していた講社の重立者が集結して「木曽御嶽本教」を立教しました。そして昭和二十七年、文部大臣より認証され、今日に至っているのです。

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教派神道系

宗派名 宗祖 本山 成立年
出雲大社教 千家尊福 本部(島根県出雲市) 1873年(明治6)
教え
創立は明治6年(1873年)の出雲大社敬神講にはじまり、明治12年(1879年)には教務局を国造邸内に移転させた。そして明治15年(1882年)の神官教導職分離令によって神道教派の一つとして独立。以降、出雲大社と深い関係を持ちながら活動を継続し、昭和26年(1951年)に出雲大社に復帰の上、合併となり、出雲大社を宗祠とする。同年、教団名を「〜たいしゃきょう」から「〜おおやしろきょう」と改称。
教団としての組織性はあまり強くない。中国地方を中心とした西日本に多くの支部や教会を持つ。教義としては大国主大神を奉斎し、「生死一つながらの幽顕一如の道」を説く。また、人間は「霊止(ヒト)」として霊的な存在であり、親神のムスヒ、幸魂・奇魂の恩頼(みたまのふゆ)によって先祖からの一貫した霊を継承し、現身の誕生があるとする
宗派名 宗祖 本山 成立年
金光教 赤沢文治 本部(岡山県浅口市金光町大谷) 1859年(安政6)
教え
安政6年(1859年)、備中国浅口郡大谷村にて赤沢文治(川手文治郎)、後の金光大神(こんこうだいじん)が開いた創唱宗教である。同じ江戸時代末期に開かれた黒住教、天理教と共に幕末三大新宗教の一つに数えられる。
祭神は天地金乃神(てんちかねのかみ)と生神金光大神(いきがみこんこうだいじん)である。従来の金神思想では日柄方位の吉凶を重視し、厳密な日柄方位の遵守を求めたが、金光教祖は自身の体験から、そういう凶事は人間の勝手気ままから生じる神への無礼が原因であり、神への願いにかなう生き方や行動を行いさえすれば、すべてが神に守られた中での生活が行えると説いた。そして、神と人とは「あいよかけよ」の関係であるとした(人が助かるには神に願い、神の助けが必要だが、神もまた人が助かって欲しいという願いを持ち、人を助けることで神としての働きが出来るので助かっているという関係)。また、人はみな神のいとしご(氏子)であり、それぞれの宗教の開祖も、神のいとしごであるという教えから、他の全ての宗教を否定しないという特徴を持つ。
大本開祖の出口なおも、一時期金光教の教師をしていた。
宗派名 宗祖 本山 成立年
黒住教 黒住宗忠 本部(岡山県岡山市北区尾上) 1814年(文化11)
教え
文化11年(1814年)11月11日、病気のため死を覚悟した黒住宗忠は太陽を拝む(日拝)中で天照太神と同魂同体となるという「天命直授」と言われる霊的体験をした。これ以降、病気も治り、宗教活動を始めた。以後、嘉永3年(1850年)に死ぬまで、布教や病者の救済をした。
皇室や公家の中に宗忠に帰依する者が多く、宗忠の死後、安政3年に神祇管領長上・吉田家より「宗忠大明神」の神号を与えられ、文久2年に京都の神楽岡に宗忠神社が創建された。宗忠神社は慶応元年(西暦1865年)、孝明天皇によって勅願所となり(孝明天皇が定めた勅願所は宗忠神社のみである)、従四位下の神階を宣下された。
明治9年(西暦1876年)、神道事務局から一派独立し、神道黒住派と称す。以降の近代古神道運動のさきがけとなった。
今日、神道系の新宗教で一般的になっている主神 (すしん。宇宙主宰神) という考え方の嚆矢でもある。天理教、金光教、大本(大本教)、生長の家、等、後の新宗教運動に直接・間接に与えた影響は少なくない。
御祭神は「天照大御神」「八百萬神」「教祖宗忠神」の3柱。教団本部は岡山県岡山市北区尾上、神道山(しんとうざん)。かつては同市同区大元の宗忠神社の隣接地に本部を構えていたが、市街地整備のために移転している。
信仰活動として伊勢神宮奉賛活動を続けており、伊勢神宮とは親しく神道山の本殿建築には遷宮時の旧内宮の古材を大量に下賜され利用した。
宗派名 宗祖 本山 成立年
神理教 佐野経彦(巫部経彦) 本部(福岡県北九州市) 1868年(明治元)
教え
特徴として五行説に基づいた五行神の思想がある。その五行神とは、土神=ハニヤスヒコノカミ・火神=カグツチノカミ・金神=カナヤマヒメノカミ・水神=ミズハノメノカミ・木神=ククノチノカミだといい、更にこれらを祖として五色人が発祥したという。また巫部神道は饒速日命から十代目の五十言宿禰に端を発し、天之御中主神から天照皇太神までの十八柱を天在諸神(あめにますもろもろのかみ)として奉斎する。
これらには先代旧事本紀大成経や竹内文書など、古史古伝的な要素も見られる。
宗派名 宗祖 本山 成立年
実行教 柴田花守(はなもり) 本庁(埼玉県さいたま市北区盆栽町)
教え
教派神道の一つで、江戸時代より続く富士信仰の不二道第10世教主の柴田花守(はなもり)〔1809-1890〕が長谷川角行の富士信仰の道統を継いで、1878年に実行社を組織して始まった。1882年一派として独立。造化三神の鎮まる、世界の中心としての富士山を崇拝し、実践道徳と天皇崇拝を説く。
宗派名 宗祖 本山 成立年
丸山教 伊藤六郎兵衛(1829-1894) 本部( 神奈川県川崎市)
教え
武蔵国橘樹郡登戸(稲田村)の農民だった伊藤六郎兵衛(1829-1894)が実家の清宮家に伝わる「丸山講」を復興して1873年(明治6年)に創設した。1875年(明治8年)には富士山を信仰する富士講の一つである「富士一山講」と合併、「富士一山講丸山教会」と称して活動を開始するが、一山講が扶桑教として独立したのを機に丸山教会は扶桑教から離脱、神道本局へ所属し、名称も「神道丸山教会本院」と改称した。
丸山教は明治10年代に「松方財政」(松方デフレ)の影響で困窮した農民からの支持を集め、静岡県・愛知県・長野県・神奈川県などを中心に隆盛した。1880年(明治13年)には多摩川の河原で信者8000人による大祈祷会が開催され、1885年に扶桑教から独立して1886年(明治19年)に丸山教会本院を設置した時には信徒数138万人とも言われた。しかし、西欧化・近代化・軍備拡張など明治政府が進める諸政策との対立が強まると、丸山教は明治20年代中頃以降に政府からの大弾圧を受け、勢力を急速に失った。しかし、教団自体は報徳社運動が唱える報徳思想に接近する事で神道系の一団体としての存続に成功し、第二次世界大戦の敗北により1946年(昭和21年)、宗教法人法により丸山教として独立して、現在の組織となった。
丸山教の創設当初は原型である食行身禄以来の富士講の影響を引き継ぎ、世直しや反近代化の思想が強かったが、明治政府による大弾圧後は報徳社運動に沿った勤勉・倹約を中心とした。現在では平和主義を主張し、反核運動(原水爆禁止運動)にも参加している。
宗派名 宗祖 本山 成立年
大本教 出口なお(開祖)
出口王仁三郎(聖師)
祭祀の中心地(京都府綾部市)
宣教の中心地(京都府亀岡市)
1892年(明治25)
教え
明治25年、『艮の金神』の発する啓示を出口なお(開祖)が受けて開教。出口王仁三郎(聖師)の力で教団として発展。戦前に、二度に及ぶ日本史上最大の宗教弾圧を受けました。
1892年(明治25年)、霊能者出口なお(当時は金光教布教者)に、国祖・国常立大神の神示が降りた。同じく霊能者である出口王仁三郎と1898年(明治31年)に出会い、大本として独立することになる。王仁三郎は、出口なおの娘婿となり、後に養子となった。やがて戦前の日本において、有数の巨大教団へと発展した。
出口なおには、厳霊・国常立大神の神示がお筆先(自動筆記)による間接内流によって伝えられた。出口王仁三郎には当初、主に小松林命、松岡芙蓉仙人及び豊雲野大神などの瑞霊系の神懸りによって、神示が直接内流として伝えられていた。出口なおの昇天後には厳霊の神懸りも加わると共に、主神の神霊も本格的に神懸るようになったらしく、『霊界物語』の口述が開始されることになった。
 大正時代、田中守平の霊術団体「太霊道」と激越な批判・反批判の論争を行い、最後は霊能力で対決した(これは、この論争を元としたフィクション作品を事実と混同されている可能性が高い。)。また、戦前、政府から二度の弾圧を受け、組織と施設に潰滅的な被害を受けた。
宗派名 宗祖 本山 成立年
禊教 井上正鉄 本部(山梨県北巨摩郡小淵澤町) 1840年(天保11)
教え
1840年(天保11年)井上正鉄(まさかね)(1790年 – 1849年)が唱えた吐菩加美(とおかみ)神道に始まる。天照大神(アマテラス)を祀り、禊祓(みそぎはらえ)を修める。1873年(明治6年)に門人によって、教団となる。
宗派名 宗祖 本山 成立年
大道教 飯田岩治郎 本部(奈良県生駒郡安堵町) 1954年
教え
飯田岩治郎(1858〜1907)が創始者。飯田忠雄(第一世管長)、飯田善一(第二世管長)、飯田尚(第三世管長)らによって継承されている。飯田岩次郎は天理教の本部準役員・平安支教会長であったが、1896年に啓示を受けたとして大道教を開教。1897年に天理教から離れ、1900年に大成教所属の教会となる。戦後、神道大成教から独立。1954年に宗教法人。

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