元弘元年(一三三一)春、児島中将範長の三男、七郎高久という侍が駿河国に下って来て、益津郡稲川森に居を定めた。この年京都では後醍醐天皇が鎌倉幕府の討幕を謀った元弘の乱が起き、北条高時の執権政治はゆきずまり、国内の政情は天皇方か幕府側かに分かれていた。二年後には南北朝争乱が始まる前の不安定な世の中であった。児島七郎高久については詳しいことは不明であるが、当時備後守を称した武将であった。兄の高徳は元弘の乱から後醍醐天皇につき、以後南朝の忠臣として活躍したことが「太平記」に出てくる。
寺伝によると、稲川森に住した小島七郎高久は、考えるところがたって剃髪し、焼津田尻宝楽寺五世智然法師のもとで真言密教の修法を受け暁居和尚のまじめで真剣に修行を続ける姿に心をうたれ、稲川森に庵を建立し、行基作の地蔵菩薩を安置し「曉居山満蔵寺」と名づけて開創された。したがって満蔵寺は、草創当時は真言宗であり、宝楽寺の末寺となったのである。その後南北朝時代、室町時代の百三十年間には火災や戟乱に遭ったりして、本尊の地蔵菩薩を残して焼失したため、寺史は不明である。創建されてから百四十年程過ぎ、室町幕府が衰え応仁の大乱(一四六七~一四七七)が続いていた頃のことである。夜更け満蔵寺に二人の少年が訪れた。二人とも唐梶を背負い、長旅をしてきた様子である。その少年が、「私達は京都からやってまいりました。都は戦いが続き、火事や夜盗が横行し、とても人が住める状況ではありません。私達は尊い文殊菩薩、普賢菩薩が兵火にかかるのを見るに忍びず唐梶に入れて背負ってきたのです。わが家の宝であるこの二体の仏様をこの寺に奉納するので、大切にお祀りしていただけませんか。」と頼んだ。住職が唐梶の中を見ると、気高い尊顔をした文殊菩薩、普賢菩薩が納められている。住職は感嘆沸涙し、「この寺に来たるも仏縁、ありがたいことだ。」と言って受け取った。二人の少年はそれを聞くと安心していずこへともなく去って行ったという。この唐梶には「河内国菊水山」と銘があったけれど、明暦元年(一六五五) 八月の洪水で堂字が流された時、唐梶は流失した。寺伝によると、この二菩薩は楠正楠、正行父子が奉祀した楠家の三尊仏の二体であったと言う。そこで住職は由緒ある仏様として別堂を建立し、後に勢至菩薩を合祀して満蔵寺三尊仏とし祀った。
その後、戟国時代に入り、永禄三年(一五六〇)今川義元が桶狭間で没すると、永禄十二年(一五六九)武田信玄が駿河に侵入、西からは、堂らは徳川家康が遠江国に軍を進めて来た。このような戦乱の真最中の永禄十二年、谷稲葉心岳寺四世蒲山孝順は、住職もいない荒れていた満蔵寺を曹洞宗に改宗して再興した。村の人々の不安な気持ちを救うため、和尚と村人が協力して満蔵寺は再び、住職がいて先祖供養のできる寺によみがえった。その後、田地も寄進され寺院基盤も成り立ち、寺運も確かなものになったが、明暦元年(一六五五)八月九日、洪水に襲われ諸堂が流失し、宝暦七年(一七五七)法輪和尚代の時再建された。安政元年(一八五四)十一月四日、世に言う安政の大地震により諸堂悉く倒壊したが、安政六年には再建された。明治四三年(一九一〇)瀬戸川が決壊し稲川一帯は浸水の被害を受け、本堂は老朽化した。昭和十三年六月、稲川出身の増田次郎は、先祖供養のため老朽化した本堂の再建を発願し、その費用の大部分を彼の浄財によって賄い、樽と櫓の良材を使った入母屋破風造りの見事な本堂を建立した。増田次郎は稲川の農家に生まれ、働きながら苦学を続け三一歳文官試験に合格、台湾民生長官後藤新平に認められ台湾に赴任。大正四年衆議院議員に当選したが、二年後に引退して、電力業界に入り敏腕を振い、昭和二年台湾大同電力の社長となり、昭和十四年日本発送電力の総裁になった立志伝中の人である。昭和二六年に没し、本堂前に胸像が建立されている。昭和三六年徳道春隣和尚示寂後、法地五世春光和尚の代になって昭和四二年から境内地四三一坪を拡張し墓地造成を果たした。さらに、昭和五七年には檀信徒の浄財によって開山堂位牌堂が新築され、続いて五九年には客殿も完成し境内も整備され寺観が整えられた。
このように七百年近い歴史を持つ満蔵寺は戟乱や火災、洪水、地震等の災害によって変遷を繰り返して来たが、その都度時の住職檀信徒の仏縁に支えられ、新たな発展をとげた寺である。
三仏堂には文殊菩薩様、普賢菩薩様、勢至菩薩様がお祀りされています。
文殊菩薩 | 卯年生れの方の守り本尊 |
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普賢菩薩 | 辰年生れの方の守り本尊 巳年生れの方の守り本尊 |
勢至菩薩 | 午年生れの方の守り本尊 |
今より約五百年前、応仁年間に唐櫃をいなう二童子が山門を叩き「京都は擾々としてこの二菩薩が兵火にかかるを見るに忍びず背負ってきた」と住職につげて立ち去ったと伝えられてます。その住僧は感涙して堂宇を建立するも明暦元年八月の洪水のため、宝物、由来書等は流出するもこの二大菩薩だけは難をまぬがれました。仏像内に「河内ノ国菊水山」の奥書あり楠木家の守り本尊であったと代々口伝されております。その後堂宇を再建するとき勢至菩薩をも安置して連綿として郷土の信者の香煙のたえることなく栄えてまいりました。諸仏典中に示されてある三菩薩を概説いたしますと次のようであります。
文殊師利現宝蔵経巻下に「五百の異道の人を化作して自ら其の師となり、五百の眷属とともに推那離国薩遮尼犍弗の所に詣り、遂に彼の五百学志等の輩を帰仏せしめたり。」とあり、叉大日経疏第五に「阿閣梨言はく、鬱金なるは即ち是閣浮金色なり。用て金剛深慧を表す。首に五髻あるは、如来の五智久しく己に成就するを表せんが為なり。本願の因縁を以ての故に重真法王の形を示作す。青蓮は是れ不染著諸法三昧なり。心無所任を以ての故に即ち実相を見る。金剛智印は能く常寂の光を以て遍く法界を照す。白蓮に座する所以は意は中胎蔵に異ならざるを明すなり」と書かれてあり、第一義空の妙慧を以て遍一切処の菩提心を浄め、平等慧の利刃を以て無始無明の根を断ずる大菩薩であります。
華厳経探玄記第二に「徳法界に周さを普と云い、至順調善なるを賢となす。」 と云い又大日経疏第一に「普賢菩薩とは、普は是遍一切処の義、賢は足れ最妙善の義なり。謂はく菩提心所起の願行及び身口意悉く平等にして一切処に遍じ、純一妙善にして、備さに衆徳を具す。故に以て名を為す」と記され、又法華経第七普賢観発品には、「是の人若しは行き若しは立ちて此の経を読詞せんに、我れ爾の時六牙の白象王に乗じて大菩薩衆と倶に、其の所に詣り、両も自ら身を現じて供養守護し、其の身を安慰せん。」 と書かれ、無量の行願を具足し、普く一切の仏刹に示現する大菩薩であります。
法華経疏第十二に「華厳経の七処八会には普賢、文殊は其の始を善くし、入法界品流通の分には此の二菩薩又其の終を全くす。此の二人が彼の経の始終に在る所以は、世相伝へて云はく、普賢の行を究意し、文殊の願を満足すと。故に普賢は其の行円を顕し、文殊は其の願満を明す。故に諸の菩薩の中に於いて究意具足し、華厳は是れ円満法門なるを顕す。」 と、即ち文殊は智を以て般若会上に活躍するに対し、普賢は因行の充実を代表するものであります。
観無量寿経に「次に大勢至菩薩を観ずべし。此の菩薩の身量大小は亦観世音の如く。円光の面は各一百二十五由旬にして二百五十由旬を照す。挙身の光明は十万の国を照して紫金色を作し、有縁の衆生は皆悉く見ることを得」と云い、又その連文に「智慧の光を以て普く一切を照し、三途を離れしむるに無上力を得たり。是の故に此の菩薩を号して大勢至と名づく。(中略)此の菩薩の行く時は十方の世界一切震動す。地の動ずる処に当りて五百億の宝華あり。一々の宝華の荘厳高顕なることは極楽世界の如し。此の菩薩坐する時は七宝国土一時に動揺す。」 と云い・叉補陀落海会軌には「西門の南は得大勢至菩薩。頂上に五髻冠あり。冠中に鍕持を任せしむ。身相は白肉色にして、左定は白蓮華、右慧は説法印なり。妙鬘宝瓔珞、身を厳ること観音の如く、月輪に安住す。」 と記されてあり、是の菩薩は観世音等と共に衆生を擁護し・叉臨終の時来迎して、極楽世界に引導する聖者として其の崇拝は盛んであります。
昭和十三年春、時の日本発送電株式会社初代総裁増田次郎先生の一大発願によって三仏堂を改築され区民一同は、その仏思に酬いんがため開扉供養を昭和十四年と昭和二十八年に盛大裡に行うことができましたのも皆様のお蔭と深く感謝申し上げます。この度昭和三十八年(卯年)を記念いたし再度大開帳を左記の通り厳修し十方の信心施主各家の 家内安全、五穀豊饒、商売繁盛、海上安全 を祈願いたしますから各々の功徳主の浄財を御善拾いたゞき広大無辺の仏恩に浴されますようお願いする次第であります。