満蔵寺

暁居山  満蔵寺
ぎょうこざん まんぞうじ

オフィシャルサイトはこちら

文字サイズ

  • 小
  • 中
  • 大

【所在地】

藤枝市稲川1-3-14

【開創】

改宗開創 永禄12年(1569)

【宗派】

曹洞宗 藤枝市 心岳寺末

【本尊】

地蔵菩薩 伝行基作

【由緒縁起】

元弘元年(1331)春、児島中将範長の3男、七郎高久という侍が駿河国に下って来て、益津郡稲川森に居を定めた。この年京都では後醍醐天皇が鎌倉幕府の討幕を謀った元弘の乱が起き、北条高時の執権政治はゆきずまり、国内の政情は天皇方か幕府側かに分かれていた。2年後には南北朝争乱が始まる前の不安定な世の中であった。児島七郎高久については詳しいことは不明であるが、当時備後守を称した武将であった。兄の高徳は元弘の乱から後醍醐天皇につき、以後南朝の忠臣として活躍したことが「太平記」に出てくる。
 寺伝によると、稲川森に住した小島七郎高久は、考えるところがたって剃髪し、焼津田尻宝楽寺五世智然法師のもとで真言密教の修法を受け暁居和尚のまじめで真剣に修行を続ける姿に心をうたれ、稲川森に庵を建立し、行基作の地蔵菩薩を安置し「曉居山満蔵寺」と名づけて開創された。したがって満蔵寺は、草創当時は真言宗であり、宝楽寺の末寺となったのである。その後南北朝時代、室町時代の130年間には火災や戦乱に遭ったりして、本尊の地蔵菩薩を残して焼失したため、寺史は不明である。
創建されてから140年程過ぎ、室町幕府が衰え応仁の大乱(1467~1477)が続いていた頃のことである。夜更け満蔵寺に2人の少年が訪れた。2人とも唐櫃を背負い、長旅をしてきた様子である。その少年が、
「私達は京都からやってまいりました。都は戦いが続き、火事や夜盗が横行し、とても人が住める状況ではありません。私達は尊い文殊菩薩、普賢菩薩が兵火にかかるのを見るに忍びず唐櫃に入れて背負ってきたのです。わが家の宝であるこの二体の仏様をこの寺に奉納するので、大切にお祀りしていただけませんか。」
 と頼んだ。住職が唐櫃の中を見ると、気高い尊顔をした文殊菩薩、普賢菩薩が納められている。住職は感嘆沸涙し、
「この寺に来たるも仏縁、ありがたいことだ。」
 と言って受け取った。二人の少年はそれを聞くと安心していずこへともなく去って行ったという。この唐櫃には「河内国菊水山」と銘があったけれど、明暦元年(1655)8月の洪水で堂字が流された時、唐櫃は流失した。寺伝によると、この二菩薩は楠正楠、正行父子が奉祀した楠家の三尊仏の2体であったと言う。そこで住職は由緒ある仏様として別堂を建立し、後に勢至菩薩を合祀して満蔵寺三尊仏とし祀った。
 その後、戟国時代に入り、永禄3年(1560)今川義元が桶狭間で没すると、永禄12年(1569)武田信玄が駿河に侵入、西からは、徳川家康が遠江国に軍を進めて来た。このような戦乱の真最中の永禄12年、谷稲葉心岳寺四世蒲山孝順は、住職もいない荒れていた満蔵寺を曹洞宗に改宗して再興した。村の人々の不安な気持ちを救うため、和尚と村人が協力して満蔵寺は再び、住職がいて先祖供養のできる寺によみがえった。
 その後、田地も寄進され寺院基盤も成り立ち、寺運も確かなものになったが、明暦元年(1655)8月9日、洪水に襲われ諸堂が流失し、宝暦7年(1757)法輪和尚代の時再建された。安政元年(1854)11月4日、世に言う安政の大地震により諸堂悉く倒壊したが、安政6年には再建された。明治43年(1910)瀬戸川が決壊し稲川一帯は浸水の被害を受け、本堂は老朽化した。
 昭和13年6月、稲川出身の増田次郎は、先祖供養のため老朽化した本堂の再建を発願し、その費用の大部分を彼の浄財によって賄い、欅と檜の良材を使った入母屋破風造りの見事な本堂を建立した。増田次郎は稲川の農家に生まれ、働きながら苦学を続け31歳文官試験に合格、台湾民生長官後藤新平に認められ台湾に赴任。大正4年衆議院議員に当選したが、2年後に引退して、電力業界に入り敏腕を振い、昭和2年台湾大同電力の社長となり、昭和14年日本発送電力の総裁になった立志伝中の人である。昭和26年に没し、本堂前に胸像が建立されている。
 昭和36年徳道春隣和尚示寂後、法地五世春光和尚の代になって昭和42年から境内地431坪を拡張し墓地造成を果たした。
 さらに、昭和57年には檀信徒の浄財によって開山堂位牌堂が新築され、続いて59年には客殿も完成し境内も整備され寺観が整えられた。このように7百年近い歴史を持つ満蔵寺は戦乱や火災、洪水、地震等の災害によって変遷を繰り返して来たが、その都度時の住職檀信徒の仏縁に支えられ、新たな発展をとげた寺である。


閉じる