【由緒縁起】
南北朝時代の応安年間(1366~1374) のことである。焼津浜当日の沖の岩上から毎夜不思議な光が輝きわたった。このことを村人が徳一色城(田中城)の城主一色信茂に伝えた。信茂が舟を沖に出し調べてみると、岩の上に観音様がのっていた。今でもこの岩を「観音岩」と呼ぶのは、このことに由来する。
発見された観音様は信茂の命によって、一色城(田中城)近くの村岡山に移し、信茂が堂宇を建立し元海法印が開山となり、村岡山万願寺として開創された。
あとで調べてみると、この観世音菩薩は、鎌倉杉本寺で弘法大師作と言われ、大切に祀られていたものであることがわかった。元弘3年(1333)新田義貞が鎌倉を攻略し、北条高時との争乱の折、鎌倉の町は火の海となり、杉本寺も焼失した。その時、杉本寺の観音様は難を避けて滑川に飛び込み(一説にはある者が持ち出した時、滑川に落としたとも言う。)、流れ流れて浜当日にたどりついたという。一色信茂は観音様のたどりついた奇端を将軍足利義満に伝え、仏供田(供養のために寄進した田)を満願寺に寄付したと言う。その後、代々の田中城主はこの観音様を田中城の守護祈願所として大切にしてきた。
寛永12年(1635)田中上水野忠善は、霊験あらたかな観音様に帰依し、堂宇を再建した。後江戸後期火災に遭って建物や武田氏の判物等焼失したが再建され、由緒ある観音様として近隣に知られていた。現在では満願寺は廃寺となったが、観音堂は残され、駿河一国三十三観音の六番札所として参拝もあり、地元の人々の手で大切に守られている。また境内の一隅には白兎園十三世を継いだ俳人堀苔梅(通称篤平明治元年藤枝に移住、38年没)の俳句
「雨聞て間もなし門の桐ひと葉」
の句碑が残されている。
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