【由緒縁起】
長楽寺は、その山号寺号にまつわる有名な伝説を持ち、町名の由来にもなっている名刹である。藤枝の市街に隣接していながら、裏山には古木が生い繁り、広い境内には幽寂な雰囲気に包まれ、町中の騒擾さは少しもない。8百年前の開創にまつわる伝説は代々語り継がれ、寺誌とは異なった伝説がいくつも残されている。異なった伝説があるということは、この開創伝説が有名であり昔からあちこちで語り継がれていたことを示唆している。ここでは、長楽寺に残されている。『長楽寺村町と相分り候事、附り青龍山長楽寺の事』(長楽寺由来記、天保4年1833宝積寺祖柏筆写)によって長楽寺の由来を述べ、その後別の伝説を加えながら述べることとする。
平安時代末期、平清盛が大政大臣になった仁安年間(1166~1168)のことである。この藤枝の地に粉川長楽斎藤という金持ちの郷士が住んでいた。妻は伊勢国神戸の住人神戸蔵人友盛の末裔である。長楽斎夫婦は共に仏神を篤く信じ、屋敷の中に鎮守として弁才天を祀り、また先祖を祀った庵を建て、伯母の養安尼を伊勢国より引き取って庵主とした。また長楽斎の家は裕福であったため困っている人々には慈悲の手をさしのべるので、人々は長楽斎のことを「仏心長者」とか「長楽長者」と尊称した。
ある時、長楽斎が弁天様にお参りしていると、母屋の棟に青竜が横たわっている。長楽斎が驚いて「汝はどこの国から来たのか。」と問うと、青竜は正体を現わして老人の姿に変身した。そして、
「私は東方を守る青竜であるが、仏法の功徳がなくては成仏できないので、仏心長者の慈悲におすがりしたい。」
と、自分の菩提供養を懇願した。そこで長楽斎は、この老人(青竜)のために1寺を建立することを約束し、青竜のために寺の東の「真薦が池」をすみかとして与えることを告げた。すると老人は大変喜び、三拝して元の青竜となって山の中へと消えた。
長楽斎は今までの屋敷を引き払って、南の田中の城あたりに転居し、屋敷跡に1年も経たないうちに七堂伽藍を建立した。そして池の中に青竜を弁天様として祀り守護神とし、阿弥陀如来と薬師如来の2尊を本尊として青竜山長楽寺と名づけた。さらに長楽斎は寺領として450石の地を与え、開山は蘭渓道隆大覚禅師を拝請した。蘭渓道隆は中国宋の人で、寛元4年(1246)来朝し、北条時頼に招かれて鎌倉建長寺を開いた高僧である。仁安年間に開創された長楽寺の開山となるには、時代にずれが出る。長楽寺は建長年間(1249~1256)に火災に遭っているので、再建後にここを通りかかった蘭渓道隆を拝請して開山になってもらい、その時から臨済宗に改宗されたのであろう。
建長年間より70年程たった正中年間(1324~1326)開基長楽斎より4代目の子孫粉川法栄斎の代に至って堂宇を再建し、鎌倉旧五山浄智寺より芝巌徳香を拝請して中興開山とした。それ以後3百年以上にわたってこの由緒ある長楽寺は、輪番寺院として近在の和尚が数年ごと交替して住職した。この間長楽寺のことは詳しい記録が残っていないため不明であるが、室町時代から戦国時代にかけても藤枝を代表する名刹として知られていて、文人や武将が立寄った記録が残されている。
文明5年(1473)8月7日、大和長谷寺の正広は、益津庄の領主であった摂津之親とともに長楽寺に滞在した。二人とも冷泉派の歌人で富士見物をかねて旅をしたことが『正広日記』に出てくる。
「さて十九日に、駿河国藤枝といふ所は、彼(摂津之親)領知にて、長楽寺といふ寺に、各々かりそめにすみ侍る。」
9月1日、鬼岩寺の裏山に登ってようやく富士を見ることができ、「富士はなを うへにぞみゆる 藤枝やたか草山の 峯のしら雲」をはじめ十首の歌を詠んでいる。
天文2年(1533)12月、京都仁和寺尊海が鎌倉下降の折、この長楽寺で雪斎長老、今川義元と会い三人で和漢の朗詠を行ったことが、尊海の『あづま道の記』に記されている。その時の作句に
ゆきやらで 花や春まつ 宿の梅 喜卜(尊海)
友三話歳寒 九英(雪斎)
扣水茶煎月 承芳(義元)
とあり、この3年後の天文5年義元は今川家を継ぎ、雪斉と協力して勢力を拡大した。長楽寺には、義元の父氏親の禁制を示した文書も残されているので、長楽寺と今川氏とは、深い関係にあった。
その後度重なる戦乱を経て、天正18年(1590)駿河国が豊臣氏の領地となった。秀吉が小田原征伐の帰路、長楽寺に450石の寺領を安堵したが、戦乱によって寺も衰退していたため、江戸時代には4石5斗になってしまった。とは言え長楽寺は名刹である故、江戸幕府の将軍代替の節は、朝鮮通信使の宿泊所にあてられていた。江戸時代の延宝年間(1673~1680)から輪番制の住職制度を廃止し、独住制となり静岡臨済寺森巖宗矗を請して二世とした。そこで、今までは臨済宗建長寺派であったが、以後妙心寺派となった。
天和2年(1682)土屋相模守政直が4万5千石の田中藩主となるや、この長楽寺を土屋家の香花所と定めたが、わずか2年後に大阪城代となって転封したため、土屋家の記録は残っていない。
長楽寺出身の和田家は、田中藩の御殿医をつとめたことのある医者であるが、江戸時代中期頃から岩村藩横内陣屋(藤枝市横内)お抱えの医師となり横内で医業を営んでいた。幕末になって美濃国岩村城(岐阜県岩村町)に移る際、和田家では先祖供養のため「補中丸」という子供のかんの虫や胎毒の薬の製法を長楽寺に伝えた。長楽寺ではこの薬を製造して売り、戦前まで母親がよく買いに来たという。今でも和田家の墓や補中丸の看板が長楽寺に残っている。
長楽寺は8百年の古い歴史を持っているが、長い歳月の間には火災等にあったり、荒廃したこともあり、昔の貴重な寺宝や記録はなくなったものの、今でも寺宝として大切に保管されているものがいくつかある。今川氏親の禁制札には「雑人等風呂に入るべからざること」「住僧還俗(一般人になること)すべからざること」などの興味深い内容が記されている。また開基粉川長楽斎の妻秋野(伊勢神戸氏の娘)が使用したと言われている鼈甲の櫛と笄が9点大切に保管されている。また長楽斎が開山和尚に贈ったという袈裟や雪舟の達磨図等も保存され、また、境内には開基長楽斎の墓も残されている。
長楽寺は由緒ある寺院として、今なお昔のおもかげを残しているが、昭和56年藤枝市出身の石彫家杉村孝氏によって書院の横に「六道の庭」が作庭され、趣きが一層深まった。
《伝説 青池の大蛇》
長楽寺開創にまつわる青池の大蛇(水竜)の伝説は、藤枝を代表する伝説として口から口へと語り継がれてきた有名な伝説である。江戸時代の代表的地方誌『駿河記』(文政元年1818)・『駿河国新風土記』(天保6年1835)・『駿国雑誌』(天保13年1842)・『駿河志料』(文久元年1861)等のすべてにこの伝説は載せられている。その記述内容は4誌とも少しずつ異っているが、概略は同じである。ただ長楽寺に残されている由来記とは異っている点が多い。ここではこの地方誌を中心に述べてみよう。
仁安年中(1166~1168)、岡出山の麓に粉川長楽斎という長者が住んでいた。妻は秋野といい、伊勢国神戸村の神戸蔵人の娘であった。夫婦とも心優しく憐み深く、困っている人には手をさしのべてやるので「粉川長者」とか「仏心長者」と呼んで尊敬していた。
この二人の間には力姫(一説には賀姫)と呼ばれていた美しい一人娘がいた。長じるに及んで美人の誉れも高く、父母の寵愛はひとかたならぬものであった。姫も親と同じで仏を信じ、長楽斎の建立した山の麓の薬師堂に毎日お参りをしていた。
ところで、長者の屋敷の裏山の東に「真薦の池」(青池)と呼ばれる周囲一里程の大きな池があった。この池には昔から大蛇(水竜)が棲みついていたが、この大蛇が力姫にほれてしまい、美少年に化けて姫に近づき、お互いに親しくなった。そしてこの美少年は姫を誘い出し池の中に引き入れてしまった。
長者は姿を消してしまった姫を八方手をつくして捜した。すると池に姫のはいていたぞうりや櫛が浮いていたとか、長者の屋敷から池の方には大蛇のはったあとが残っていたとか、大蛇のうろこが落ちていたとかいう村人からの報告があった。長者は池の大蛇が娘をさらってしまったと大変悲しみ、大いに怒り娘のかたきを討とうと決心した。そして池のまわりに薪を集め、石を焼いて池に投げこみ、銅や鉄を溶かして池にそそぎ込んだ。とうとう大蛇もたまらず死んでしまった。
そこで長者はこの薄幸の娘の菩提供養のため、自分の家屋敷に寺を建立し、薬師如来と阿弥陀如来の二尊を本尊として開創されたのが長楽寺であるという。
今では真薦の池のあとは宅地化されてしまった。しかし、青池は小さくはなったが、今なお水をたたえている。池のほとりには大蛇を祀ったと伝えられる弁天堂があり、以前には水田の中に大蛇のあとの 「蛇溝」と呼ばれる水路や、溝が太くなった場所の「見返り淵」が残っていた。このように証拠になるものがあったため、この伝説が多くの人に信じられ、言い継がれてきたのである。
この伝説は真薦池の水田開発のための説明伝説ではないかという磯部武男氏の示唆に富む論文がある。『藤枝市郷土博物館紀要第二集』「青池の大蛇伝説をめぐって」には、寺院開創にまつわる由来の中に潜む歴史的価値が述べられている。このような学問的探究は価値があり、寺院史研究の今後の課題でもある。
長楽寺は、その山号寺号にまつわる有名な伝説を持ち、町名の由来にもなっている名刹である。藤枝の市街に隣接していながら、裏山には古木が生い繁り、広い境内には幽寂な雰囲気に包まれ、町中の騒擾さは少しもない。8百年前の開創にまつわる伝説は代々語り継がれ、寺誌とは異なった伝説がいくつも残されている。異なった伝説があるということは、この開創伝説が有名であり昔からあちこちで語り継がれていたことを示唆している。ここでは、長楽寺に残されている。『長楽寺村町と相分り候事、附り青龍山長楽寺の事』(長楽寺由来記、天保4年1833宝積寺祖柏筆写)によって長楽寺の由来を述べ、その後別の伝説を加えながら述べることとする。
平安時代末期、平清盛が大政大臣になった仁安年間(1166~1168)のことである。この藤枝の地に粉川長楽斎藤という金持ちの郷士が住んでいた。妻は伊勢国神戸の住人神戸蔵人友盛の末裔である。長楽斎夫婦は共に仏神を篤く信じ、屋敷の中に鎮守として弁才天を祀り、また先祖を祀った庵を建て、伯母の養安尼を伊勢国より引き取って庵主とした。また長楽斎の家は裕福であったため困っている人々には慈悲の手をさしのべるので、人々は長楽斎のことを「仏心長者」とか「長楽長者」と尊称した。
ある時、長楽斎が弁天様にお参りしていると、母屋の棟に青竜が横たわっている。長楽斎が驚いて「汝はどこの国から来たのか。」と問うと、青竜は正体を現わして老人の姿に変身した。そして、
「私は東方を守る青竜であるが、仏法の功徳がなくては成仏できないので、仏心長者の慈悲におすがりしたい。」
と、自分の菩提供養を懇願した。そこで長楽斎は、この老人(青竜)のために1寺を建立することを約束し、青竜のために寺の東の「真薦が池」をすみかとして与えることを告げた。すると老人は大変喜び、三拝して元の青竜となって山の中へと消えた。
長楽斎は今までの屋敷を引き払って、南の田中の城あたりに転居し、屋敷跡に1年も経たないうちに七堂伽藍を建立した。そして池の中に青竜を弁天様として祀り守護神とし、阿弥陀如来と薬師如来の2尊を本尊として青竜山長楽寺と名づけた。さらに長楽斎は寺領として450石の地を与え、開山は蘭渓道隆大覚禅師を拝請した。蘭渓道隆は中国宋の人で、寛元4年(1246)来朝し、北条時頼に招かれて鎌倉建長寺を開いた高僧である。仁安年間に開創された長楽寺の開山となるには、時代にずれが出る。長楽寺は建長年間(1249~1256)に火災に遭っているので、再建後にここを通りかかった蘭渓道隆を拝請して開山になってもらい、その時から臨済宗に改宗されたのであろう。
建長年間より70年程たった正中年間(1324~1326)開基長楽斎より4代目の子孫粉川法栄斎の代に至って堂宇を再建し、鎌倉旧五山浄智寺より芝巌徳香を拝請して中興開山とした。それ以後3百年以上にわたってこの由緒ある長楽寺は、輪番寺院として近在の和尚が数年ごと交替して住職した。この間長楽寺のことは詳しい記録が残っていないため不明であるが、室町時代から戦国時代にかけても藤枝を代表する名刹として知られていて、文人や武将が立寄った記録が残されている。
文明5年(1473)8月7日、大和長谷寺の正広は、益津庄の領主であった摂津之親とともに長楽寺に滞在した。二人とも冷泉派の歌人で富士見物をかねて旅をしたことが『正広日記』に出てくる。
「さて十九日に、駿河国藤枝といふ所は、彼(摂津之親)領知にて、長楽寺といふ寺に、各々かりそめにすみ侍る。」
9月1日、鬼岩寺の裏山に登ってようやく富士を見ることができ、「富士はなを うへにぞみゆる 藤枝やたか草山の峯のしら雲」をはじめ十首の歌を詠んでいる。
天文2年(1533)12月、京都仁和寺尊海が鎌倉下降の折、この長楽寺で雪斎長老、今川義元と会い三人で和漢の朗詠を行ったことが、尊海の『あづま道の記』に記されている。その時の作句に
ゆきやらで 花や春まつ 宿の梅 喜卜(尊海)
友三話歳寒 九英(雪斎)
扣水茶煎月 承芳(義元)
とあり、この3年後の天文5年義元は今川家を継ぎ、雪斉と協力して勢力を拡大した。長楽寺には、義元の父氏親の禁制を示した文書も残されているので、長楽寺と今川氏とは、深い関係にあった。
その後度重なる戦乱を経て、天正18年(1590)駿河国が豊臣氏の領地となった。秀吉が小田原征伐の帰路、長楽寺に450石の寺領を安堵したが、戦乱によって寺も衰退していたため、江戸時代には4石5斗になってしまった。とは言え長楽寺は名利である故、江戸幕府の将軍代替の節は、朝鮮通信使の宿泊所にあてられていた。江戸時代の延宝年間(1673~1680)から輪番制の住職制度を廃止し、独住制となり静岡臨済寺森厳宗轟を請して二世とした。そこで、今までは臨済宗建長寺派であったが、以後妙心寺派となった。
天和2年(1682)土屋相模守政直が4万5千石の田中藩主となるや、この長楽寺を土屋家の香花所と定めたが、わずか2年後に大阪城代となって転封したため、土屋家の記録は残っていない。
長楽寺出身の和田家は、田中藩の御殿医をつとめたことのある医者であるが、江戸時代中期頃から岩村藩横内陣屋(藤枝市横内)お抱えの医師となり横内で医業を営んでいた。幕末になって美濃国岩村城(岐阜県岩村町)に移る際、和田家では先祖供養のため「補中丸」という子供のかんの虫や胎毒の薬の製法を長楽寺に伝えた。長楽寺ではこの薬を製造して売り、戟前まで母親がよく買いに来たという。今でも和田家の墓や補中丸の看板が長楽寺に残っている。
長楽寺は八百年の古い歴史を持っているが、長い歳月の間には火災等にあったり、荒廃したこともあり、昔の貴重な寺宝や記録はなくなったものの、今でも寺宝として大切に保管されているものがいくつかある。今川氏親の禁制札には「雑人等風呂に入るべからざること」「住僧還俗(一般人になること)すべからざること」などの興味深い内容が記されている。また開基粉川長楽斎の妻秋野(伊勢神戸氏の娘)が使用したと言われている亀甲の櫛と幹が9点大切に保管されている。また長楽斎が開山和尚に贈ったという袈裟や雪舟の達磨図等も保存され、また、境内には開基長楽斎の墓も残されている。長楽寺は由緒ある寺院として、今なお昔のおもかげを残しているが、昭和56年藤枝市出身の石彫家杉村孝氏によって書院の横に「六道の庭」が作庭され、趣きが一層深まった。
《伝説 青池の大蛇》
長楽寺開創にまつわる青池の大蛇(水竜) の伝説は、藤枝を代表する伝説として口から口へと語り継がれてきた有名な伝説である。江戸時代の代表的地方誌『駿
河記』(文政元年1818)・『駿河国新風土記』 (天保6年1835)・『駿国雑誌』 (天保13年1842)・『駿河志料』(文久元年1861)等のすべてにこの伝説は載せられている。その記述内容は4誌とも少しずつ異っているが、概略は同じである。ただ長楽寺に残されている由来記とは異っている点が多い。ここではこの地方誌を中心に述べてみよう。
仁安年中(1166~1168)、岡出山の麓に粉川長楽着という長者が住んでいた。妻は秋野といい、伊勢国神戸村の神戸蔵人の娘であった。夫婦とも心優しく憐み深く、困っている人には手をさしのべてやるので「粉川長者」とか「仏心長者」と呼んで尊敬していた。
この二人の間には力姫(一説には賀姫)と呼ばれていた美しい一人娘がいた。長じるに及んで美人の誉れも高く、父母の寵愛はひとかたならぬものであった。姫も親と同じで仏を信じ、長楽斎の建立した山の麓の薬師堂に毎日お参りをしていた。
ところで、長者の屋敷の裏山の東に「真薦の池」(青池)と呼ばれる周囲一里程の大きな池があった。この池には昔から大蛇(水竜) が棲みついていたが、この大蛇が力姫にほれてしまい、美少年に化けて姫に近づき、お互いに親しくなった。そしてこの美少年は姫を誘い出し池の中に引き入れてしまった。長者は姿を消してしまった姫を八方手をつくして捜した。すると池に姫のはいていたぞうりや櫛が浮いていたとか、長者の屋敷から池の方には大蛇のはったあとが残っていたとか、大蛇のうろこが落ちていたとかいう村人からの報告があった。長者は池の大蛇が娘をさらってしまったと大変悲しみ、大いに怒り娘のかたきを討とうと決心した。そして池のまわりに薪を集め、石を焼いて池に投げこみ、銅や鉄を溶かして池にそそぎ込んだ。とうとう大蛇もたまらず死んでしまった。
そこで長者はこの薄幸の娘の菩提供養のため、自分の家屋敷に寺を建立し、薬師如来と阿弥陀如来の二尊を本尊として開創されたのが長楽寺であるという。
今では真薦の池のあとは宅地化されてしまった。しかし、青池は小さくはなったが、今なお水をたたえている。池のほとりには大蛇を祀ったと伝えられる弁天堂があり、以前には水田の中に大蛇のあとの 「蛇溝」と呼ばれる水路や、溝が太くなった場所の「見返り淵」が残っていた。このように証拠になるものがあったため、この伝説が多くの人に信じられ、言い継がれてきたのである。
この伝説は真薦池の水田開発のための説明伝説ではないかという磯部武男氏の示唆に富む論文がある。『藤枝市郷土博物館紀要第二集』 「青池の大蛇伝説をめぐって」 には、寺院開創にまつわる由来の中に潜む歴史的価値が述べられている。このような学問的探究は価値があり、寺院史研究の今後の課題でもある。
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