【由緒縁起】
熊谷山蓮生寺はその山号寺号が示すように『平家物語』で有名な熊谷次郎直実(蓮生房)にまつわる由緒深い寺である。開創の由来には次のような興味深い話が寺伝として言い継ぎ語り継がれている。
熊谷次郎直実は武蔵国熊谷庄の出身で、大里と埼玉両郡の領主として、源平の戦いでは源氏方に属し、戦場では決して敵に後ろを見せることなく勇敢に戦い源頼朝から日本一の強者と賞賛され感状20余通も賜った豪の武士であった。寿永3年(1184)「一ノ谷合戟」では、心ならずも平家の貴公士敦盛を討ち、泣く泣く首を落とした。『平家物語』では、この無情な戦さが直実の出家の動機になっているが、『吾妻鏡』によると、文治3年(1187)鎌倉鶴岡八幡宮の放生会の時直実が流鏑馬の的立の役が出家の原因としている。直実は名にし負う武士としてのプライドが的立役を不服として従わなかったため、頼朝の機嫌を損ね、領地の一部をとりあげられてしまった。その上、叔父である久下氏との領地の境界争いの訴訟でも、武骨な武士である故上手に弁護できず敗訴した。その怒りのあまり自らの刀で髪を切り落とし逐電した。そしてかねてよりの念願であった仏門に入るために京の都に上り、浄土宗開祖法然上人の弟子となった。
その後は一途に念仏三昧に邁進し「坂東阿弥陀仏法力房蓮生法師」と呼ばれた。ところが建久6年(1195)故郷に残してきた老母が病気であることを知り、見舞いのため熊谷庄へ帰ることになった。その帰路、東に向かって旅をするには西方浄土の阿弥陀様に背を向けなければならないために、馬上では後ろ向きに乗り、
「浄土にも剛の者とや沙汰すらむ西に向いて後ろ見せねば」
と「南無阿弥陀仏」とずっと唱え、旅を続けて来た。遠江国小夜の中山峠にさしかかった時、山中から山賊がとび出し蓮生房に襲いかかってきた。昔の直実ならば歴戦の勇士であるから、山賊の1人や2人、たやすくねじ伏せたが、今は法然上人の弟子蓮生房である。賊の言うままに持っていた路銀をすなおに与えてしまった。大井川を渡り藤枝の宿まで来ると路銀なく、このまま旅を続けることができなくなってしまった。老母の病も気になる。そこで福井長者と呼ばれていた福井憲順に旅費の拝借を願うことにした。憲順は平忠清の7男景清の庶子であり、この藤枝に住んでいた資産家ではあったが、欲が深かったので
「質物として置いてゆくものが無ければ貸すことはできない」
と断った。すると蓮生房は「然らば大切な十念を質にいたそう。」
と言い、憲順に向かって掌を合わせて「ナムアミダブツ」と唱えた。すると不思議なことに蓮生房の口の中から金色に輝く阿弥陀様があらわれ、いっしょに唱えていた憲順の口中に吸いこまれていく。10度唱え10体の阿弥陀様が憲順の身体の中に収まってしまった。驚き感激した憲順は直ちに1貫文の銭を蓮生房に差し出した。
老母の介護も空しく、母の死を手厚く弔い、翌建久7年(1196)の春、法然上人のもとに帰る途中、世話になった福井長者の屋敷を訪れ、昨年の礼を述べて借りた銭を返した。そして福井長者に
「質に入れた念仏を戻して下さい。」
と申し入れた。福井長者は困ってしまった。
「私のような欲の深い者は、どうしたらそのような尊い念仏が申されるでしょうか。」
と尋ねると、蓮生房は
「ただ、南無阿弥陀仏と称えなさい。そうすれば必ず戻ります。」
と答えた。そこで長者は手を合わせ、心の底から一心に念仏を唱えると、口の中から阿弥陀様があらわれ、蓮生房の口中に戻った。9回くり返し9体の阿弥陀様が戻されるのを見ていた憲順の妻は、最後の1体となった時、
「できることなら、あと一遍の唱名と1体の阿弥陀様を私達にお預け下さい。」
と懇願した。蓮生房も2人の真剣さに打たれ、快く承知した。そして憲順は蓮生房の弟子となり、法名を蓮順、妻は蓮心と名づけ仏門に入った。岡出山の麓にあった福井長者の屋敷を念仏道場の蓮生寺としたのが、蓮生寺開創の由来である。蓮生房はこの念仏道場にいた時
「阿弥陀仏と唱ふる人は彼の国に心ぞ至る墨染の袖」
と詠ずると、弟子となった蓮順が
「受け伝う法の流れも汲みて知る この嬉しさをいつか報ぜん」
と詠じた。蓮生房は上洛の折、別れを惜しむ2人のために形見として自作の蓮生の寿像を残して行った。この寿像は今でも大切に安置されている。
この阿弥陀仏十念の話について、別の言い伝えでは蓮生房が念仏を唱えると、庭の池の蓮の花が十個一度に咲き出し、返す時には一個ずつ消えたとも言われている。いずれにせよ、蓮生寺開創にまつわる感動的な話である。蓮順の嫡子蓮因が蓮生寺の3代となっていた貞永2年(1233)、浄土真宗開祖親鸞聖人(一一七三~一二六二)が関東から京都に戻る途中、この蓮生寺に寄った。蓮因は上人の感化により親鸞聖人の弟子となり、蓮生寺を浄土真宗に改宗した。この時上人は蓮因に「十字尊号黒谷秘伝抄」を授けたと言われる。その後第9世生岸は蓮如上人(1415~1495、浄土真宗中興の祖)より親鸞聖人の雛形木像寿像を拝領した。この像も今なおその添状とともに大切に本堂に安置されている。
蓮生寺はこの地区唯一の浄土真宗寺院として法灯を守り興隆したが、戦国時代末期永禄12年(1569)徳川武田軍が田中城の攻防をめぐって争った時、その兵火にかかり焼失した。家康は熊谷直実、親鸞聖人ゆかりの蓮生寺焼失を哀れみ、三ヶ条制札の朱印状を授けた。13世念誓は檀信徒と協力し、寛永20年(1643)には本堂を、寛文3年(1663)には梵鐘を鋳造した。15世観翁は不着と号し軍学にすぐれ、田中藩士の軍学指南役に任ぜられた異色の住職であった。田中城主水野監物が城の再築に当って出た残木を蓮生寺に寄進してくれたため、7間4方の本堂を再建した。
18世良空の代の享保15年(1730)上州沼田城より転封して来た本多伯耆守正矩は、翌16年8月20日蓮生寺を本多家の菩提寺と定めた。したがって蓮生寺は、明治元年(1868)安房転封までの7代137年間、本多家の菩提寺として源昌寺・大慶寺とともに、田中城ゆかりの寺として特別待遇を受けるようになった。蓮生寺の墓地には19基の本多家の墓石があり、家臣の墓もある。藩校日智館の剣術、弓術の指南役で藩外にも有名であった小野成誠もここに眠っている。蓮生寺の現山門は文化8年(1811)田中城主本多正意が改築したものである。また鐘楼は文化14年(1817)に改築し、昭和52年一部改修を施した。
明治37年(1904)1月3日、木町から出火した火事は上伝馬まで全焼する大火となったが、この時蓮生寺も類焼の災難に遭い本堂と庫裡を焼失した。この火事の時藤枝市の天然記念物に指定されているイブキの大樹も一部類焼したが、その後樹勢を取り戻した。そこで、24世証雲は檀信徒の協力を仰ぎ、明治41年に庫裡を再建し、大正2年には本堂も再建した。現在の良材を使った立派な本堂はこの時のものである。さらに26世法城代に本堂の屋根茸替をし、昭和59年には旧庫裡を撤去し再建した。
このように蓮生寺は、蓮生房や親鸞聖人の旧跡であり、京都東本願寺直末の寺院として名刹である。8百年の歴史の中では兵火や火災などの災難に遭いながらも、歴代住職がその法灯と伽藍を大切に守り続けて来た。寺宝の多きも市内寺院の中でも屈指であり、学問的にも価値の高いものが残されている。その主なものを記しておく。
熊谷蓮生房寿像 蓮生房自作
母衣絹名号
蓮生房筆 横取替の名号 法然上人筆蓮生房拝受
熊谷直実戦場使用の薙刀 無銘 平安末期作
甲中御守仏 (太子像) 直実所持 鎌倉時代作
蓮生房木像 中山備中守信敬彫刻
見真大師雛形寿像 蓮如上人より拝受
聖徳太子木像 伝運慶作
金泥十字名号 黒谷秘伝紗 親鸞上人筆
方便法身像 福井長者念持仏 平安時代作
経文切 伝教大師筆
経文切 伝光明皇后筆
六字名号・歎異抄 蓮如上人筆
御文 実如上人筆 証如上人筆
正信偈文・御文 教如上人筆
金泥阿弥陀経・普門品 本多正珍筆
円鏡 本多正珍姫遺物
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