【由緒縁起】
『竜池山洞雲禅寺略縁起』によると、日本に仏教が伝来して約2百年後、神亀5年(728)青峰白眼という高僧がこの地に巡錫して来た。そして裏山の洞窟に黙座し、断食修行を続けていた。37日目の暁方、この洞窟から白雲がにわかにわきおこり、大雨が降り出し雷鳴とともに洞窟前の小さな池の中から竜が躍り出した。この奇瑞によって竜池山洞雲寺という名をつけ、一宇を開いたという。奈良時代のことであり、青峯白眼という僧が何宗でどんな人であるかは不明であるが、近くの鬼岩寺、清水寺も同じ頃の神亀年間に開創されている。
開創後8百年近くの間については寺伝もなく、荒廃したまま、寺名のみが残っていた。そんな折、永正7年(1510)4月21日、坂本村林叟院(焼津市)を開いた賢仲繁哲の2番弟子であった在天祖竜がこの地に来て荒寺を曹洞宗に改宗して再興した。在天は遠州掛川在杉井村に生まれ、林翌院の賢仲に師事し、さらに諸方の禅寺を歴参した後、賢仲の法を継いだ。洞雲寺を再興して住山すること17年禅定家の名僧として近隣に名を知られ、その徳風を慕って若い修行僧が雲集し、多くの僧を育てた。また民衆も教化し近在に七ケ寺を開創した後、大永7年(1527 遠州地頭方の村人に誘われて林昌院を開き、6年間住山し、享禄5年(1532)1月27日示寂した。在天の弟子や歴代住職もよく師の禅風を受け継ぎ、民衆の中に入って近隣に末寺を開き門流を広げ、廃寺まで含めると三六ケ寺の直末寺院を有する大寺となった。
四世覚翁文等は豊臣秀吉の尊崇を受け、天正18年(1590)4石5斗の朱印地と山林数町歩を賜った。この朱印状は青山八幡宮、高根権現、花倉八幡宮、洞雲寺の三社一ケ寺の寄進状であるが、秀吉の帰依によるものである。洞雲寺では豊臣秀吉を中興開基としてその位牌を奉安している。
五世良山秀洞が住していた慶長5年(1600)徳川家康は関ヶ原の戦いに出陣する折、洞雲寺にて休憩した。この時献上した柿が縁となり、家康より寺領内竹木伐採禁制の朱印状を賜っている。2代将軍秀忠も上洛の折、洞雲寺に寄り紋付膳具を給付している。江戸時代、朝鮮使節等も宿泊したことがあり、藤枝宿の名刹としてその名が知られていた。
天明5年(1785)近くの火事によって類焼し大伽藍を全焼し、文化8年(1811)5月19世右逢原左が諸堂を再建し旧観に復した。再建2ケ月前の夜、原左は霊夢を見て豊川稲荷、弁才天、金比羅宮の3体を合祀した荷荷堂を建立し当山の安全を祈願した。しかし、明治31年(1898)8月23日夜、再び回録の災にかかり、諸堂宇皆烏有に帰した。同年十二月庫裡を再建、大正五年(一九一六) 二八世道順達元は、浄財を集め現本堂を再建し旧観に復した。
《藤八柿》
慶長5年(1600)9月6日、徳川家康は石田三成と雌雄を決するため関ケ原に向う途中、洞雲寺にて休憩をした。この時、洞雲寺の檀家であった五十海村の橋本藤八が、家康に献上するために柿の実を持参した。家康はこの柿を大変喜び、柿の名を尋ねたので、藤八が「美濃の大柿でございます」と答えた。家康はそれを聞いて、「もはや美濃の大垣が手に入った」と大いに喜んだという。果たせるかな関ケ原の決戦に勝利をおさめ、天下は家康のものとなった。
江戸への帰路、家康は再び洞雲寺に立寄り、藤八と住職良山秀洞を呼び、藤八には羽織と皮の袴を与え、この柿を「藤八柿」と名づけ、代々藤八を名乗るように伝えた。良山秀洞には、「何なりとも望みを申せ」と言われたが、秀洞は 「寺領には望むことはありません。ただこのごろ寺の竹や木を伐り取ってしまう者がいて困っています。」と訴えた。すると家康は、竹木伐採の禁制の朱印状を与えた。橋本家ではこの拝領の羽織と袴を家宝として大切に保存し、洞雲寺も慶長5年9月19日付けの朱印状を保管している。
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