【由緒縁起】
大手の源昌寺は、田中城主とゆかりの深い寺院である。慶長6年(1601)田中城に酒井備後守忠利(三河以来の徳川家旗本)が、初代藩主として川越から1万石の大名として移封してきた。忠利は直ちに城郭の大改修にとりかかり、四の曲輪を築き、それまでは一万坪程だった田中城を4万2千坪までに広げ、家臣の侍屋敷とした。田中城の正門を大手口に変更し、城と城下町をつなぎ、下伝馬を設け藤枝宿の整備も実施した。わずか8年の在城であったが、田中城の基盤を確立した名君主であった。
また、忠利は神仏尊崇の念も篤く、父雅楽頭正親の菩提を弔うため、寺院を建立した。父正親の法名、雙松院殿繁林源昌大居士に因み「繁林山源昌寺」と名づけ、洞雲寺6世大洲重撮を拝請して、慶長7年(1602)源昌寺が開創された。開山大洲重撮は源昌寺以外に市内に向善寺・延命寺・光明寺の四ケ寺を開いた名僧である。忠利は源昌寺建立後、青山八幡宮には5石分の土地を寄進し、また瀬古の秋葉大権現の再建をも行っている。忠利は慶長14年(1609)武蔵国川越城に移り、3万7千石に加増され、後老中職となり幕政にも参加した。彼は川越に移ると、そちらにも源昌寺を建立し、父の菩提を弔った。
享保15年(1730)田中藩主となった本多伯著守正矩は、父の正方法名瑞光院殿伝室禅燈大居士と母、法名清雲院殿真巌浄妙大姉の位牌を源昌寺に納め、源昌寺を香花所に定めた。天明6年(1786)四世仏州玉頴は、城主本多正温公以下家臣や檀信徒の帰依を受け、寺格を法地格に上げた。さらに寛政3年(1791) から同6年にかけて諸堂を悉く再建し、境内を整備し、除地高五石を給された。このように源昌寺は田中藩主の帰依を受け、蓮生寺・鬼岩寺とともに正月3日には藩主の代参があり、5日には年賀登城をする寺院として特別待遇を受けた。そのため源昌寺には今でも殿様用の部屋が昔のまま残されているし、境内墓地には藩士の立派な墓が残されている。
平成5年本堂庫裡の大改修を行い、あわせて客殿を増築した。月舟宗胡の山号額のかかっている本堂は、寛政6年(1794)建立の昔の建物をそのまま残し、屋根を葺替えた修築であるため、素朴ではあるが2百年の歴史と禅寺らしい風格が伝わってくる。
《首斬り地蔵》
源昌寺の裏に「首斬り地蔵」と呼ばれる地蔵菩薩を祀った小堂がある。江戸時代源昌寺の裏は 「源昌寺原」と呼ばれ、田中藩の処刑場のあとである。文化13年(1816)6月2日年貢の軽減を訴えて処刑された義民増田五郎右衛門(法名義山玄忠居士)が、ここで処刑された。この五郎右衛門を供養するために建てられ、祀られた地蔵菩薩が後に「首斬り地蔵」と呼ばれるようになった。
《霊魂の帰郷》
田中城主本多正意の家臣に山口郡司という侍がいた。文化2年(1805)江戸屋敷に勤蕃していたが、悪病にかかり江戸にて死去した。その死去した夜、源昌寺に山口郡司が尋ねて来て住職に面会を求めた。和尚が出て来て少し話しをしているうちに、郡司の姿が忽然と消えてしまった。不思議なこともあるものだと思いつつ、4日程過ぎた時、郡司の父山口惣右衛門が訪れ、息子郡司の死去を告げ追善供養を頼んだのである。和尚が亡くなった日時を尋ねると、4日前と同時刻であった。江戸との48里を霊魂が来訪したのである。
|