【由緒縁起】
宗傳寺は『志太郡誌』『藤枝町史』によると、文和元年(1351)日祐によって、西光寺別院として創建されたという。西光寺は永享元年(1429)に真言宗から浄土宗に転じたというから、西光寺別院も真言宗であった。寺伝によると、その後この西光寺別院に住していた宗傳律師という徳の高い僧が、近くの日蓮宗法華堂(後の大慶寺)の大円院日順上人と問答をして上人の感化を受け日蓮宗に転宗したという。宗傳律師は名前も日聞と変え、寺名も宗傳寺と改め日蓮宗寺院として再興したのである。
以来6百年、法華経を深く信じる檀信徒に支えられ日蓮上人を称えた行事が実施され、その法灯を守り続けて来た。特に11月11日行われる日蓮上人御会式には、檀信徒が皆集まり大法要が行われ、団扇太鼓の音も高らかに万灯行列がくり出される。篤い信仰に支えられ、明治三五年に再建された本堂は歴代住職と檀信徒の協力により修理を重ねて守られて来た。近年になって区画整理事業が行われ、それに伴って昭和52年庫裡を新築した。
《海中出現日蓮上人像》
宗傳寺には海中から発見されたという日蓮上人の立派な木像が安置されている。この像は寺伝の「海中出現祖士像縁起」によると次のような由緒がある。
江戸時代の文化3年(1806)前後のことである。焼津城之腰の海岸に日蓮上人の尊像が流れついた。この像を近くの子供達が見つけ、縄をかけて引きまわして遊んでいた。その中で、茂十郎の子供が高熱を出し何日も熱が下がらなくなってしまった。すると茂十郎の夢枕に日蓮上人が出現し、「吾は日蓮なり、題目修行の信心をなすべし。病気平癒疑いなし。」と告げられた。茂十郎が懸命に題目を唱えると、子供の病は朝露の如く消えた。その後茂十郎は熱心な法華信者となり、流れついた日蓮上人像を拝んでいると、再び夢の中に上人が現れ、「我を朝日に向いたる寺に安置すべし。」とのお告げがあった。そこで茂十郎はあちこちの寺に相談し、その中で仏縁のあったこの宗傳寺に安置することになったのである。
この尊像は今まで海水に浸り、子供に引き廻されたりして傷み、汚れていた。そこで宗傳寺では京の仏師に補修してもらおうと京都の仏具屋に依頼した。彩色が施され補修された尊像は見ちがえるほどすばらしいものになった。ところが、仏具屋はその作品がすぼらしいものになったことから、ふと悪心が起こり、別の木像とすり替えてしまったのである。宗傳寺ではすり替えられたことはわからず、大切にお祀りをして拝んでいた。ところが、その仏具屋は、ある夜夢の中に日蓮上人が現れ、「我は藤枝宿宗傳寺に安置されるべきものなり。早くそのようにせよ。」と告げた。驚いた仏具屋は自分の邪心を懺悔し、このことを宗傳寺に伝えて来た。この知らせに驚いた宗傳寺では、文化3年(1806)2月、檀家の望月権石工門を名代として京に行かせ、尊像を奉還したのである。後にこの尊像を詳しく専門家に調べてみてもらったら、この作者は有名な日法上人作であることが判明した。日法上人は宗祖日蓮上人の高弟で木彫の才能に長けていた。日法上人は師の日蓮上人の像を精魂傾けて彫りあげ、すばらしい作品を残している。身延山久遠寺、池上本門寺、鎌倉妙本寺の上人像の三体は、日法上人の刻んだもので、一木三体といって同じ木から三体の像を刻み、日蓮上人自らが検認して点眼したものだという。一刀三拝して、題目を唱えながら精魂を込めて造ったものであり、国宝に指定されている。宗傳寺の海中出現の上人像も日法上人の作風を確かに伝えており日法上人の信仰心の強い人柄をよく現している。迫力ある眼光を持った座像の前に立つと畏敬の念を起さずにはいられない。
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