新護寺

成田山 新護寺
なりたさん しんごじ

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【所在地】

藤枝市本町4-5-25

【開創】

照光院 鎌倉時代

【宗派】

真言宗 智山派 千葉県成田市 新勝寺末

【本尊】

大日大聖不動明王

【由緒縁起】

 成田山新護寺は、現在では千葉成田山の別院として市内で最も多くの参拝者で賑う寺であるが、八百年余年の歴史を持ち、寺名も宗派も数回改変されたことのある古寺である。
 建長四年(一二五二)後嵯峨天皇の第一皇子宗尊新王が第六代の将軍職に就任することになった。当時政治の実権は執権の北条時頼が握っていて、将軍職は形式的なものとなっていた。時頼は自分の執権政治をより確かなものにするため、将軍職を十三歳の宗尊親王にあてたのである。宗尊親王は将軍職就任のため、同年三月京都を出発し東海道を東に向った。象徴的将軍職とは言え天下の将軍でもあり、天皇の第一皇子の鎌倉への下向であるから、多くの供を連れ、威儀を整え親王は御所車に乗り東海道を一路鎌倉に向った。藤枝の宿まで来た時、長旅を重ねてきたため、御所車の左側の車輪が壊れてしまった。そこで車の修理が終るまで、親王は近くにあった照光院で休息し、旅の疲れを癒した。この縁によって照光院を「左車山休息寺」と改称し、地名も「左車」と呼ぶようになった。壊れた車輪は村人が大銀杏の根本に埋め「御車持様」とあがめ左車神社として祭られた。
 照光院、休息寺とも古い記録がないため、宗派や開山は不明であるが、鎌倉室町時代を経て戦国時代に至り、田中城の攻防をめぐる武田軍の兵火にあって全焼した。廃寺になりかけていた休息寺が再興されたのは、明暦二年(一六五六) のことであった。洞雲寺七世日洲鯨敬は村人と協力し、焼失した伽藍を建立し、曹洞宗寺院として休息寺を再興した。以後二百年間曹洞宗寺院として続いたが、安政三年(一八五六)老朽化した本堂を取り壊し、大師堂だけ残して休息寺は廃寺となったのである。
 この廃寺となった休息寺を「成田山新護寺」としてよみがえらせたのは、鈴木法憧と市川幾太郎である。明治初年、東京芝にいた元五百石取りの旗本市川幾太郎は、廃寺となっていた休息寺の跡地に本堂を再建した。そして自分の弟子であった鈴木惣五郎(法憧)を出家させ、千葉県成田山新勝寺にて修行させ、成田山の分霊を拝受し、不動明王を本尊として真言宗藤枝成田山新護寺として開創した。惣五郎も法名を法憧と改め、新護寺の開山となった。以来百五十年法憧-秀本-照恭-秀本-照成と法灯を継ぎ、駿河地区唯一の成田山分院として寺運を興隆して来た。新護寺は無檀家ではあるが、不動明王の霊験を信じる数多くの信者があり、護摩修法による御祈祷に訪れる参詣者で賑っている。特に正月の三ケ日、二月三日の節分会、十月二八日の火わたり等の大祭には、参拝者で境内から街道まで人の波ができる。成田山は車の安全祈願、厄難消除、合格祈願、ボケふうじ等人間の四苦八苦あらゆる苦難の救済を願う人々の信仰に支えられている信者寺である。
 近年に至って諸堂の整備を行い、昭和六三年には客殿、庫裡を新築し、平成九年一月には境内に水掛け不動尊を建立、同年七月には、本堂の屋根替、内陣改造を完成した。

《弘法大師堂》
 境内にある弘法大師堂は、休息寺の頃から祀られていた弘法大師像が祀られている。この大師像は昔から駿河三弘法の一体と言われ、一体は不明であるが、鬼岩寺の弘法大師とともに由緒ある弘法大師像である。
 またこの大師堂には行基菩薩作 (六六八~七四九)と言われる波切不動尊が祀られている。この尊像の体内に納められた文書 (寛文年中 南昌院養達法印書)によると、この不動尊は行基菩薩の作で有度郡下清水村南昌院 (修験道、廃寺) に祀られていたものであった。ところが宝永四年(一七〇七) の地震で大破したため、新たに尊像を修覆し、安政六年に彩色したという。


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