正定寺

大徳山 称名院 正定寺
だいとくざん しょうみょういん しょうじょうじ

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【所在地】

藤枝市藤枝2-3-27

【開創】

寛正3年(1462)

【宗派】

浄土宗 鎮西派 智恩院末

【本尊】

阿弥陀如来

【由緒縁起】

  正定寺は旧東海道瀬戸川のたもとにあり、市街地の入口からすぐ見える山門をくぐると、みごとな枝ぶりの松の巨木が目に入ってくる。正定寺のシンボル「本願の松」である。
 浄土宗正志寺は寛正3年(1462)、鎌倉光明寺の僧であった信蓮社貞誉によって開創された。法然上人によって広まった弥陀信仰の拠点としてこの地域の人々が集まり、往時は専修院、正明院という塔頭寺院を有していたという。天正年間(1573~1591)火災に遭ったが、10世生誉によって再建された。
 開創後2百年余が過ぎた貞享元年(1684)、14世として浄誉が入山した。浄誉は近江国志賀郡の出身であり、関東で修学した後、当山の住持となった。住持となった翌貞享2年、不思議な仏縁によって弁財天を祀ることになった。今なお「福智弁才天」と呼ばれ、多くの人に信仰されている弁天様である。この弁天様は、『弁才天縁起』に次のような由来が述べられている。浄誉が正走寺に入寺する前の年のある夜、不思議な夢を見た。紫雲に乗った弁天様が枕もとにあらわれ、次のように浄誉に告げた。
 「汝、我を信ずること久し、吾れ汝を守る年あり。早く住居を定むべし。汝に富貴を授けん。」
とのお告げであった。その後縁あって正走寺の住持となったところ、翌年一人の老人がこの正定寺を訪れた。その老人は、
「私は近江国志賀郡の練信と申す居士です。私のところでは弘法大師作と伝えられている弁天様を祀っていました。ある夜夢の中にこの弁天様があらわれ、そのお告げに東海の辺りに水を頼み戸外に浴する正定寺という名の寺があるはずだ。私をその道場に送り届けよとのことです。早速私は近江草津から尋ね尋ねてようやく此の寺を捜し得ました。」
と語り、笈に納めてあった弁才天をこの寺に置き、帰っていった。
 浄誉は自分の見た霊夢に符号しており、感涙にむせびつつ早速弁天堂を建立し、心をこめてお祀りした。するとこの話しが有名になり、近在の人々ばかりでなく遠くからも参詣に訪れるようになり、正走寺は以前よりずっと賑わい浄財も集まるようになった。浄誉はこの弁天様の福徳を困っている人達の救済にあて、あわせて阿弥陀如来の教えを広めることにしたため増々寺運は興隆した。
 田中藩14代藩主土岐丹後守頼稔もこの弁財天を信仰していて時々参詣に来られたところ、大阪城代に出世した。そこで享保15年(1730)、報恩のために本堂の前に松の木を植えた。この松が昭和61年藤枝市の天然記念物に指定された「本願の松」(別名「延命の松」)である。その後、弁天様の御利益を求めて街道を上下する旅人も立寄り、門前には花屋、茶屋が並び通称弁天町と呼ばれた。
 弁天様のおかげで寺運は興隆したとは言え、正定寺は瀬戸川のすぐ横にあったため、瀬戸川の氾濫による憂き目にも遭っている。享保年間(1716~1735)に瀬戸川が氾濫し、伽藍は大破、古記録や貴重な什物も流されてしまった。元文年間(1736~1740)に諸堂を修築した。さらに明治23年(1890)また洪水にあい、庫裡が大破したが、大正9年(1920)24世修誉の代に改築され、現在に至っている。また弁天堂は老朽化したため明治45年に解体され、昭和45年再建された。さらに再建20周年を記念して平成2年「弁天わらべ地蔵」(杉村孝作)が建立されている。


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