【由緒縁起】
清水寺は藤枝地区では最も早い時期に開創された名刹であり、住職も53代目を数える。開創の由来だけでなく、一級の古文書や宝物、境内の広さからも鬼岩寺と並び称され、昔から志太地区の人々に「清水さん」と呼ばれ親しまれてきた。
寺伝によると神亀三年(726)行基菩薩が行脚の途上この地に錫を留め、自らの手で千手千眼観音菩薩像を彫りあげて本尊として祀り、清水寺を開創したと言う。神亀3年と言えば、この20年程前の大宝元年(701)大宝律令が制定され、地方には国・郡・里が置かれた頃である。志太地区には志太郡と益津郡が定められ、清水寺と瀬戸川をはさんだ対岸には、志太郡街が置かれた。清水寺の麓は瀬戸川の水を利用した水田が昔から開け、清水寺開創以前からたくさんの人々が住みついていた。4世紀から7世紀にかけての原古墳群、若王子古墳群、南新屋古墳群、谷稲葉古墳群のように大規模な古墳が作られた。瀬戸川中流域には大規模な集落があり、寺院を支える基盤は十分にあった。
6世紀中頃日本に伝来した仏教は、聖徳太子が604年十七条の憲法を定めたことによって、国教となり急速に広まり奈良の都には大寺院が建立された。地方にも仏教は次第に伝わり、この志太郡の人々も仏の教えを知りたい、仏の徳にすがりたい、病気や災害の苦難を救ってもらいたい、という仏教信仰の心が芽ばえて来ていた。
志太郡を統治した郡司や村を治めていた里長も民衆の信仰心をまとめ、精神的なつながりを強めるためにも寺院を建立する必要が生じて来た。このような社会情勢のもとで、この地区に最初に開創されたのが原の清水寺、藤枝の鬼岩寺、葉梨の安楽寺、補陀洛寺、高柳の正法寺(活林寺)岡部町三輪の興福寺であった。清水寺の建立を支援した一般の人の名は伝わっていないが、恐らく志太郡街の大領(長官)や少領(次官)も、建立の中心となったであろう。
開創時の宗派については寺伝にも伝わっていない。行基の開創であるから法相宗と考えられるが、この当時は後の時代のような宗派意識はなかった。「行基菩薩のお造りになった観音様にすがり、病気平癒鎮護国家等の現世の平安を願うこと」が清水寺開創の目的であった。行基(668~749)は河内国大鳥郡の豪族高志氏の子として生まれ、14歳で出家し、法相唯識学を薬師寺で学んだ後、民衆の中にとびこみ仏の教えを説き、数多くの弟子を率いて全国各地を伝道して歩いた。そして、寺院を建立しただけでなく、橋を架けたり堤を築いたり池を掘ったりという公営事業も手がけたので、当時の民衆には絶大な人気があった。一時国家から異端視されたこともあったが、大仏建立に当っては3千人の弟子を駆使して、募金勧幕に尽力したため、国家からは大僧正の称号を与えられ、民衆からは大菩薩と尊称された。
行基菩薩が開創したという確証は残念ながら残っていないが、清水寺には奈良時代に書かれた『縁生論』1巻(県指定文化財)が今でも大切に保管されている。この『縁生論』は、称徳天皇が父聖武天皇の13回忌にあたり、全国由緒ある寺院に納経した一切経の一部である。奥書きに「神護景雲2年(785)5月13日」とあり、別名『景雲経』とも呼ばれるものである。全長479センチもあり、黄はだで染めた料紙に写経体で墨書されている。この『縁生論』が清水寺に残されていること自体、地方では珍しくかつ、清水寺が中央にも知られていた由緒ある寺院であった証明でもある。
平安時代に入り、弘仁8年(817)弘法大師空海が東国巡錫の折清水寺に寄り、傷んだ堂字を再建した。空海は日本に密教を伝え、高野山金剛峯寺や京都東寺を開創し、真言宗を開いた有名な高僧である。空海が再興したことにより、清水寺は真言宗に属し、高野山無量寿院末となった。したがって草創開山は行基、中興開山は弘法大師として両開山を祀っている。
その後清水寺は発展をし、12院の諸堂を有し、塔平と呼ばれている所には五重塔も建っていた大伽藍を誇り、平安時代・鎌倉時代・戦国時代にわたって多くの人々に信仰された。正暦2年(991)花山法皇は戒師悌眼上人を伴って東国巡幸をした際、清水寺に立寄り、観音様の霊験あらたかなることにより、勅願所と定め、千石を賜ったという。さらに2百年後の建久元年(1190)源頼朝は、清水寺を武運長久天下泰平を願う祈願所寺院とした。室町時代に入ってからは、今川家の帰依を受け、今川義元からは新たに2町歩の土地の寄進を受け、さらに義元の子氏真からは、15石の寺領安堵を受けている。また氏真は清水寺門前で年2回自由に商売することができるよう楽市楽座の許可状も与え、清水寺を保護した。
永禄3年(1560)今川義元が桶狭間の戦いで没すると、駿河攻略をねらっていた武田信玄は、永禄12年(1569)冬大軍を率いて駿河に侵攻し、駿府城・花沢城・田中城等を次々に攻略した。この戦いの時清水寺も兵火に遭い、さしもの大伽藍も悉く焼失した。この時本尊と『縁生論』は難をのがれたが、多くの仏像や寺宝が焼失してしまった。信玄は駿河を平定すると直ちに寺領安堵状を清水寺に発給している。その安堵状には「新清水寺」と記されている。今まであった境内を現在地に移し、翌永禄13年(元亀元年1570)には畳字を新築した。慶長年間(1596~1615)には現本堂(観音堂)が建立され、本堂正面には慶長19年 (1614)の銘が刻まれている鰐口が下がっている。
江戸時代に入ってからも江戸幕府から朱印寺領20石を安堵された、この石高はこの地区の寺院では最も多いものである。このように清水寺は署名な為政者に帰依されたが、それ以上に一般民衆からも篤い信仰を受けたのである。駿河観音霊場の第一番札所として多く参詣者を集めた。本尊の千手観音様は秘仏で拝顔は許されないが、霊験あらたかな観音様として毎年二月の第三日曜をはさんで前後3日間の縁日には、ダルマ市がたち、出店も多い。この縁日は浜松の鴨江観音、鈴川の毘沙門天と並んで県下三大縁日の一つとして、厄除けを願う人々で大いに賑わう。特に結婚前の女性は、十九の厄を払わねばならないといって昔は、よくお参りをしたものである。寺宝としては縁生論・鰐口・懸仏・その他戟国時代から江戸時代にかけての朱印状等がある。
清水寺は、多くの人々の篤い信仰に支えられ伽藍も整備され、登り口には不動明王が、仁王門には阿吽の仁王像がにらみをきかせ、頭上には松平定信の「音羽山」の扇額がかかっている。境内に入ると、昭和63年に再建された立派な大師堂があり、地蔵堂・鐘楼・朱塗りの八角堂・籠堂・庫院・奥の院、それに本堂がいらかをつらねている。昔の威観は見られないが、清水は郷土の誇る名刹であることに変わりはない。
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