鬼岩寺

楞巌山 鬼岩寺
りょうごんざん きがんじ

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【所在地】

藤枝市藤枝3-16-14

【開創】

神亀3年(726)

【宗派】

高野山真言宗

【本尊】

聖観世音菩薩 行基菩薩作

【由緒縁起】

 鬼岩寺は藤枝市の商店街からはずれた山裾にあり、背後の山には雑木の古木が緑の葉を繁らせ、静閑の地にある。大正4年(1915)の火災や、永禄13年(1569)武田軍の兵火等により、昔の大伽藍や貴重な寺宝や古記録等を焼失したため重厚な雰囲気は薄らいでいるが、藤枝地区を代表する古刹である。約1千3百年の寺の歴史を誇り、数多くの伝説を持ち、観世音菩薩や不動様の霊験あらたかなことから、今でも善男善女の篤い信仰を受けている。

《開創》
 寛保2年(1741)31世照秀の記した『鬼岩寺縁起』によると、楊厳山鬼岩寺は神亀3年(726)行基菩薩によって開創されたという。行基 (668~749)は河内国の豪族高志氏の子として生まれ、15歳で出家し道昭・義淵に就いて法相唯識学を究めた。学問追究にあきたらず民衆の中に入って、寺を作り、土木事業に携り、国分寺・東大寺建立に大きな力を発揮した。その功績によって、我国では最初の大僧正に任ぜられた奈良時代一の高僧として有名である。
 神亀3年(726)行基は東国地方へ布教の途上、此の地に寄った。寺も無く仏教を信じる者が少ないのを憐れんだ行基は、衆生を救済し、仏教弘通の根拠地とするため、自らの手で聖観世音菩薩を彫りあげて祀ったのが、鬼岩寺の始まりであったという。現在この観世音菩薩は秘仏であり、33年に1度の開扉法要を待たねば拝顔できない。

《弘法大師と魔魅の岩》
 開創してから百年程過ぎた弘仁年間(810~823)、弘法大師空海が東国行脚の折、この地に寄った。ちょうどこの頃悪い鬼が出て人々を苦しめ、困りはてていた。そこへ弘法大師が訪れたので、村の人々はこれ幸いと大師に鬼退治をお願いした。そこで大師は五大尊の像を措き、7日間秘咒を加持すると、一天にわかにかき曇り、雷鳴とともに鬼が姿をあらわした。そこで大師はこの鬼を裏山の岩穴に封じこめると、荒れていた空はたちまち晴れわたり、翌日から鬼岩寺村に鬼は出なくなった。これを機に寺の名を「鬼岩寺」と称するようになり、真言宗に改宗され、村の名も鬼岩寺村と称するようになった。今でも寺の裏山には岩穴があり「鬼岩」とか「魔魅の岩」と呼んでいる。また鬼が鋭い爪を研いだと言われる傷あとの残った「鬼かき岩」(学者の説では玉を研いだ石であると言う)が境内に安置されている。
 その後鬼岩寺は有名になり、建久3年(1192)には、鳥羽天皇が先帝後白河法皇の追善供養のため、法皇所持の仏舎利二粒を宝塔に入れて鬼岩寺に奉納したという。

《静照上人大蛇退治》
 平安末期の長安年間(1163~1164)、鬼岩寺の南方2.5キロ程の村の大池に大蛇(竜)が住みついていた。この大蛇は池の近くを通る人々を次々に飲み込んでしまうので、村人たちは困りはてていた。鬼岩寺の住職であった静照(菱和元年寂281)は、池のまわりの丘に7ヶ所の護摩壇を築き、天台宗三井寺開山智証大師円珍(814~892の刻んだ不動明王を祀り、大蛇退散の不動護摩の修法を行った。さしもの大蛇もその法力によって教化され封じ込まれ、広大な池の水も干上って陸地となり、後には田畑として利用されるようになった。霊験あらたかなこの不動明王は、承安3年(1173)鬼岩寺境内に不動堂を築き安置した。人呼んで「池早不動」と称し、今でも多くの人々に篤く信仰されている。鬼岩寺の正面の不動堂に安置され、最近市の文化財に指定された本尊がこの不動明王である。左の眼は天をにらみ、右の眼は地を見つめている天地眼の不動尊像である。天台宗寺門派では天地眼の不動明王を祀る特徴を持っているから、慈覚大師との関係は深いと言える。
 大蛇を退治した鬼岩寺の静照は、戒走慧三学を究めた名僧として広く知られ、後に源頼朝からも帰依された。頼朝は純錦の自分の礼服をお袈裟に仕立て直して、静照に賜ったと言う。鬼岩寺ではこの静照を中興開山としてあがめている。
 この静照の大蛇退治の伝説は「水上池の悪竜退治」の伝説として、水上村万福寺、志太の九景寺等の開創縁起として伝えられている。それぞれ内容は少しずつ異っているが、水上という地名でもわかるように、大きな池(低湿地帯)があった。中世の時代水上池を開拓し、田畑に変え、食糧の増産を図るため、僧侶による宗教的・技術的指導の下で土地開発が行われた。この開発が伝説として伝えられたのであると、磯部武男氏の優れた学問的研究「水上池の悪霊退治伝説について」(藤枝市郷土博物館紀要三)があるので参照されたい。

《足利義満・足利義教宿泊》
 鎌倉時代に入っても鬼岩寺はこの地区の名利として街道に名が知られ、名僧が住職となっている。永仁年間(1293~1298)には良観上人が、また後には鎌倉極楽寺開山の忍性上人が住職となり、二重塔を建立し、その中には、書写した大蔵経を納めたと言われている。
 嘉慶2年(1388)、足利幕府3代将軍義満は、富士山を見物のため下向した時、この鬼岩寺に宿泊した。さらに永享4年(1432)9月17日には、6代将軍足利義教も鬼岩寺に宿泊した。この時のことは、『続太平記』『今川記』『富士御覧日記』等にも詳しく記されている。将軍義教は鎌倉公方の足利持氏に将軍の権威を誇示するため「富士遊覧」と称して、大行列を仕立てて京都から駿河国に下った。飛鳥井雅世、三条実雅、勧修寺教秀の公家や歌人や殿上人の他に、一説には6千騎ともいわれる武士を率いて、
「山も川もとどろき渡りけり。」
と称される程の大部隊を伴って大井川を越えて来た。
 駿河国守護職今川範政が出迎え、一行は鬼岩寺に1泊した。帰路にも1泊し、この時鬼岩寺裏の岩田山に富士山を眺めるための望事を築いたという。この故事によってこの山を「富士見平」とか「天がすみ」(殿下休み)と呼ばれ、高草山の山越しに富士山が眺められることで有名になった。文明5年(1473) 歌人の正広は富士見平にて、
「富士ハなを うへにそミゆる 藤枝や 高草山の峯の白雲」
という歌を残している。

《宝篋印塔》
 入口を入って左側に苔むした石の宝篋印塔・五輪塔・板牌が並んでいる。この宝篋印塔というのは、『宝篋印陀羅尼』の経文を書き写し納めた塔で、鎌倉末期から室町時代にかけて流行した信仰習慣である。
塔の形は、塔の頂きに宝珠があり続いて相輪・笠・塔身・基礎・反花座からなり、笠の4隅には隅飾をつけた手のこんだ石の塔である。宝筐印陀羅尼を唱え、塔を造立すると悪道に堕ちた亡者も極楽に生じるという信仰によって建立された。鬼岩寺にはこの塔が15基残っているが、その中で一きわ大きい塔に「矢部隼人 永徳2年(1382)」と刻まれた銘が残っている。矢部氏は岡部氏、朝比奈氏、松井氏等とともに、今川家に古くから仕えた武士であり、現在も葉梨下之郷に矢部屋敷の地名が残っている。その他の塔には銘はないけれど、この時代の矢部家一族や今川系の武士達が道立したものであろう。
 また、小さな五輪の塔は、近年墓地整備の折出土したもので現在260基程発見され現在地に安置されたが、まだ地中には埋まったままのものがあるという。これだけ多くの五輪塔が1ヶ所にあるということは、県内では珍しい。その中の2基に応安(1368~1374)の年号のものと応永12年(1405)の年号が記されているから、14世紀から15世紀頃造塔いたされたものである。また、弥陀三尊の梵字を刻した板ひ牌も県内では珍しいものである。これらの石塔群は当時の信仰形態を知る上で、貴重な資料であり、文化遺産でもある。
(「宝篋印塔考」藤枝市文化財審議委員長 天野信直)

《飛行舎利》
 戦国争乱の風の吹き荒れた永禄13年(1570)、甲斐の武田信玄は駿河に攻め込み、駿府城を手に入れ、1月26日には花沢城を攻め滅ぼし、月末には田中城を攻略した。この時武田軍は飽波神社、清水寺、東光寺、遍照光寺等の名だたる神社仏閣を焼き払った。鬼岩寺もこの兵火によって本尊の聖観世音菩薩を除いて貴重な寺宝や記録が残らず焼失した。この時鳥羽天皇が奉納した仏舎利二粒は、燃えさかる炎の中を飛び出したので、「飛行の舎利」と呼ばれた。信玄はこの舎利を甲斐に持ち帰り、武田勝頼の手を経て高野山に奉納した。江戸時代に入ってから高野山成慶院住職秀雅は、この舎利が藤枝宿鬼岩寺のものであったことを知り、延宝7年(1679)鬼岩寺に返納した。その後、鬼岩寺の復興は慶長7年(1602)幕府から12石の朱印領を賜り、伽藍が再興されてからである。現在の不動堂はこの時建立されたものである。

《不動明王の帰山》
 この永禄13年の兵火に遭った折、不動堂に祀られていた不動明王は行方知れずになっていた。八方捜したが見つからず、焼失してしまったのではないかと言われていた。ところが、六十年程たった寛永年間(1624~1643)23世住職堅照上人がある夜夢を見た。その夢の中に例の不動明王があらわれ、
 「吾、甲斐国甲府大泉禅寺にあり。汝等来たり迎えよ。」
と告げたのである。翌朝、堅照が夢のことを思い出していると、鬼岩寺の檀那大井神社神主の大桶六兵衛があわてた様子で寺をたずねて来た。六兵衛は昨夜見た夢のことを堅照に告げた。不思議なことに全く同じ夢であった。
 そこで住職と六兵衛の2人は旅仕度を整え甲斐の国、大泉寺に向けて出発した。旅を続け、富士川のほとりの茶店に寄ると、一人の旅の僧が休んでいる。何とはなしにこの僧と話しはじめ、夢のお告げのことを語ると旅の僧は大変驚いた。旅の僧が言うのには、実は私はその大泉寺の使いの僧であり、同じように不動明王の夢のお告げにより、駿河国鬼岩寺へお不動様をお返しにあがる途中であるという。鬼岩寺堅照も六兵衛も霊験あらたかなお不動様に感謝しながら、不動明王をこしに載せて帰山した。60年ぶりに不動堂の本尊が帰山したことに誰もが歓喜し、その因縁の不思議さに改めて驚いた。

《如意宝網珠》
 享保17年(1732)9月10日のことである。門前の道普請のため裏山を削った土を門前に積みあげておいた。その夜、村人が鬼岩寺の護摩堂の方を見ると、寺が真赤に光っている。火事ではないかと駆けつけて見ると、何の異変もない。首をかしげながら家に帰り、鬼岩寺をながめると、また同じように鬼岩寺が赤く光っている。
 翌日村人が光ったあたりの積み上げた土地を掘ってみると火鉢のようなものが出て来た。こじあけてみると直径8寸8分、表面は網をかけたような筋のある鼠色の玉が現れた。誰も今まで見たことのないような不思議な美しい玉である。皆口々に
「昨日火事だと思ったのは、きっとこの玉が光ったからに違いない。」
と言った。
 その後住職が京都に行く用事がありこの玉を持参し、諸国から来た僧達に見せた。しかし、誰一人としてこの玉の名を知っている者はいない。このうわさが二候関白殿下の耳に入り、高覧してもらったところ、殿下は「如意宝網珠」と名づけてくれた。この珠は現在も鬼岩寺の大切な宝として伝えられている。

《黒犬物語》
 寛政から文化年間(1789~1803)の頃、鬼岩寺に「クロ」と呼ばれていた黒プチの犬が飼われていた。身体も大きく精博で大変強い犬であった。その強いうわさが天下に広まり「東海道の黒犬」とまで言われていた。これを聞いた土佐の国の殿様が、自分の国も土佐犬の産地として有名であり黙認することができず、土佐犬を連れて来て決着をつけようとした。そこで参勤交替の折に土佐一の犬を連れて来て、鬼岩寺に行列をとめた。
 鬼岩寺の住職は、土佐藩主からの使いを受けると、闘志より心配の方が先に立ち、気が気でない。
「いくらクロが強いとは言え、有名な土佐犬と戦えば負けるに決まっている。万一勝っても恨まれる。下手をすれば殺されてしまうかもしれない。」
と嘆き、弱りはてていた。そこで和尚は、殿様が到着する前にクロを逃がしてしまおうと思いつき、クロに「帰って来るな」と言い聞かせ寺から追い出した。するとクロは名残惜しそうに、尾をふりながら裏山に消えていった。
 やれ一安心と思っていると、数日後クロは寺に帰って来てしまったのである。和尚もそれでは仕方がないと覚悟を決め戦わせることにした。翌日土佐の殿様が10数人の家来を従え、土佐犬を連れてやって来た。いよいよ犬の戦いが始まった。犬同士を見合わせると黒い犬クロはあたかも木鶏の如く落ちつきはらっている。それにひきかえ、殿様の方は興奮し、土佐犬は闘志むき出しである。
 しばらくにらみあいが続いたが、クロが一声「ウーウワン」鋭い声で吠えた。すると裏山から沢山の犬の鳴き声が呼応したのである。それを聞いた土佐犬は先刻の闘志はすっかり消え失せ、尾を下げてあとずさりを始めてしまった。勝敗は決した。殿様も潔く負けを認め、江戸へと旅立った。クロは鬼岩寺を出された時、遠州春野まで行き、春埜山大光寺の部下の犬を連れて来たのだと評判が立った。その後鬼岩寺のクロは増々有名になり、皆から可愛いがられるようになった。
 それからしばらく過ぎたある日、田中城の殿様本多候が碁を打ちに鬼岩寺に来山した。和尚と碁を打っていると、クロが裏庭に入って来て殿様の目にとまった。
本多候はクロを見て、
「和尚どうだ、有名なこのクロとわしが飼っているシロと闘犬させてみたいが……。」
と言う。殿様のことばであるから和尚も困ってしまった。クロが勝っても殿は面子をつぶされたとして、犬を手打ちにするかもしれない。そこで和尚は
「どちらが勝っても傷つくし、負ければ殺されるかもしれません。むごいことですから………。」
とやわらかく断った。が、殿様は引き下がらない。そこでとうとう戦い合うはめになってしまった。
 数日後、本多候はシロを連れて来て鬼岩寺の庭で戦いが始まった。シロも強く、お互いに吠え合い、咬み合い、血を流しあったが、やはりクロの方が格段に強く、勝ってしまった。殿様は可愛いがっていた自慢のシロが負けると怒り出し 「このにっくき黒犬め。」と刀を抜いて切りつけたので、クロは裏山へ逃げこんでしまった。面子をつぶされた殿様は怒りがおさまらず、家来に槍を持たせ、翌日から山狩りをすることを命じた。
 その夜こっそり帰って来たクロに、和尚は御馳走をたっぷり与え、もう寺には帰ってくるなと言い聞かせ、裏山に逃がした。本多候の家来達は翌日からクロを必死になってさがしたが見つからない。10日程たった夕方、クロはひょっこり寺に帰って来た。それ逃がすなと家来たちが追いかけると、クロは逃げまわる。それでも大勢の家来にとりかこまれると、とうとうクロは、川の横にあった井戸(硯生涯学習センター近く)に自分から跳び込んでしまったのである。すると突然井戸の中から黒煙がわき出し、何万匹もの黒犬が現われて吠え出した。クロの自刃であった。その潔い姿に感じた殿様も自分の負けを認め、社わがままを悔い改めたとい榊う。後に村人たちはクロの霊を祀り神社を建立した。これが山門を入って左側にある黒犬神社である。(『藤枝町伝説童話集』大房暁)
 このように楊厳山鬼岩寺は1千3百年の歴史を誇り、数多くの伝説を持ち、由緒ある仏様を祀り、貴重な寺宝を蔵し、真言密教の法灯を伝えてきた。残念ながら大正四年に火災に遭い数多くの寺宝や貴重な書類を焼失したが、昭和54年には本堂を建立、55年に庫裡を再建した。鬼岩寺の寺宝として残っているものは
 聖観世音菩薩 鬼岩寺本尊 行基作  天和2年(1616)田中城々主土屋政直再興
 大聖不動明王不動堂(護摩堂)本尊 智証大師円珍作 
 如意宝網珠 享保17年(1732)地中より発見
 鰐口 慶長16年(1611)若松惣右衛門作(藤枝市指定文化財)
 鬼かき岩 音この辺りに出没した鬼が爪を研いだ岩という
等がある。
 今も鬼岩寺はこの地域の仏教を信仰する人々の拠り処として、数多くの信者を集めている。1月28日に行われる厄除け火渡りの行事と、8月20日弘法大師の縁日には、近隣からの善男善女が雲集し、花火もあがり大いに賑う。


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