慶全寺

守国山 慶全寺
しゅこくさん けいぜんじ

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【所在地】

藤枝市本町1-12-13

【開創】

天正年間(1573~1591)

【宗派】

臨済宗 妙心寺派 静岡市 臨済寺末

【本尊】

釋迦牟尼如来

【由緒縁起】

 慶全寺は、最初田中城の城脇に建立され、田中城の歴史と深い繋がりのある寺院である。開創後移転もあり、また万治年間(1658~1660)火災に遭ったため、旧記を焼失し開創の詳しい記録がないため開山は不明であるが、近年三枝純郎氏(開基家子孫静岡市在住)の調査研究によって、天正年間に三枝虎吉の発願によって創建されたことが解明された。
 三枝土佐守虎吉は甲斐武田家二十四将の一人守友の親で、元亀元年(1570)武田軍の駿河攻略によって田中城を手に入れ、依田信蕃とともに田中城の守将として在番した。天正3年(1575)武田勝頼と織田・徳川連合軍の戦った長篠の戦いおきた。この戦いに三枝虎吉の長男勘解由左衛門守友(38歳)、次男源左衛門守義(36歳)、末弟甚太郎守光(16歳)の3人が出陣し、同年6月25日鳶の巣山の戦いで3人とも討死した。田中城を守っていた64歳の老武将虎吉の落胆著しく、3人の息子の菩提を弔うため、城内に守国山慶全寺を建立した。山号の守国山は三枝氏の先祖の守国の名をとったものであろう。山梨には三枝氏の氏神である守国明神が祀られている。また討死にした長男守友が着用していた具足は、現在静岡浅間神社に保管されている。
 その後慶長5年(1600)関ケ原の勝利によって徳川家康が天下を握ると、翌6年3月3日酒井備後守忠利が一万石の禄高で田中城主として入城した。忠利はただちに城郭の拡張と整備にとりかかった。今までの正門であった平島口を改め、東海道に面した大手口を正門とし、下伝馬駅を設けて宿場の整備も行った。さらに城の外側に4の堀を作り、その内側3万2千坪の土地を造成して家臣の侍屋敷とした。この城の拡張に伴い、平島口脇にあった慶全寺と大井神社は岡出山の麓の郡の地先の現在地に移転した。
 郡に移転して50年後の万治年間(1658~1660)火災に遭い堂宇を消失したが、宝永年間(1704~1710)道鑑祖団の代に本堂等を再建した。享保年間(1716~1735)には、本寺臨済寺十二世要道祖印の法嗣である法界慧牧が住職であった時、寺格をあげて法地寺院とした。その際本寺の月海和尚を拝請して譲功開山とした。昭和18年規模を以前よりひとまわり大きくした本堂を新築した。旧本堂は開創当時からの本尊である聖観音を安置し、境内地に観音堂として残されている。

《子育観音》
 本堂東側の丘の上に青銅製の観音様の立像があり、訪れる参拝客を優しい眼で迎えてくれる。この観音様は、先々住豊洲和尚の奥様水野じょうさんが、安産と子供の健やかな成長のために願主となって多くの人の協力によって昭和12年に建立されたものである。じょうさんは助産婦の資格を持ち、境内に水野助産院を開院し、嫁の智恵子さんと二代にわたって子供の誕生を助け、数多くのうぶ声を響かせた。この縁によって子育観音が建立された。


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