全居寺

池厳山 全居寺
ちげんざん ぜんきょじ

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【所在地】

静岡県藤枝市水守16

【開創】

元和3年(1617)

【宗派】

曹洞宗 藤枝市 耕春院末

【本尊】

釋迦牟尼如来

【由緒縁起】

 全居寺は旧東海道に面した街道の寺である。全居寺に隣接したところには、県天然記念物の楠の大木がうっそうと社叢をなしている須賀神社がある。寺の左の小高い丘には観音堂があり、また右隣には日蓮宗本行寺もある。全居寺一帯は街道の喧噪の中にありながらも、荘厳な宗教的な雰囲気に包まれている。昔の旅人も旅の疲れを楠の木陰でいやし、旅の安全を観音様に祈ったことであろう。
 古伝によると、全居寺境内にある観音堂は、法然上人が開創したと伝えられる古堂であり、「蛇柳如意輪観音」と呼ばれる観音様を祀って来た次のような伝説がある。
 かつてここには、葉梨川の本流が下の公園あたりで大きく曲がり、深い溝をなしていた。川の大きな曲折が馬の鐙に似ているところから「鐙ヶ淵」と呼ばれていた。ずっと昔のことではあるが、この淵の岸には光を放つ岩と柳の大木が茂っていた。この柳に触れると往生心が起き、身投げをするものがあり自殺の名所となった。この悲しい話を伝え聞いた浄土宗開祖恵心僧都源信(法然上人)は「往生とはそのように命を粗末にすることではない」と言って、この柳の大木を切り倒した。そしてその柳の木を用いて観世音菩薩像を刻んで、丘の上に祀ったのが観音堂の由来である。またこの観音様の胎内にははらこもり赤子の像が納められていて、別名「お腹篭の尊像」と呼ばれ、子授け、子育てに霊験があり、今もなお、熱心な信者が参詣に来る。江戸時代にも鐙ケ淵は有名で、十返舎一九も『東海道中膝栗毛』 の中で
 宴もとは 鞍のあぶみが 淵なれば
  踏んまたがりて 通られもせず
という狂歌を残している。
 この由緒ある観音堂をもとにして、水守村の村人に禅の教えを説き寺院建立に努力したのは、正屋順公和尚である。観音堂の横に堂字を建て、耕春院嶺山仝鷲を話して開山とし、元和3年 (1617) 池巌山仝居寺が開創された。以来4百年近く歴代の住職と村人たちは寺と観音堂の信仰の灯を守り続けてきた。
 明治維新になって義務教育法が施行されると、明治7年から12年までは共英合という小学校の校舎として使用されたこともあったが、昭和23年には寺格を法地に上げ、昭和56年には本堂の大改修を行った。そして、昭和62年には観音堂の改修と観音菩薩の33年に一度の大開帳法要を厳修、さらに平成3年に庫裡を新築し、寺観を整え発展してきたのである。


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