慈眼寺

西了山 慈眼寺
せいじょうざん じげんじ

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【所在地】

藤枝市横内179

【開創】

慶長4年(1599)

【宗派】

曹洞宗 藤枝市 常楽院末

【本尊】

阿弥陀如来

【由緒縁起】

横内村は文禄3年(1594)内谷村より分れて開村された。氏神の白髭神社の上梁文によると、豊臣秀吉の家臣であった。池田孫次郎輝利が横内の地に移り住み、河川改修を行い、自分の郷里近江国白髭神社の祭神を招魂し、その遷座とともに開村されたという。村ができると村人達は先祖の菩提供養のために新寺を建立しようという機運が高まった。そこで常楽院6世学翁宗参の弟子であった龍谷秀泉は、村人の気持ちをまとめ、開村功労者の池田氏や旧家であった戸塚氏達の協力を得て、寺地を確保し、資材を集め、浄財を勧募して堂字を建立した。そして慶長4年(1599)、龍谷秀泉の師である学翁宗参を開山に拝請して慈眼寺が開創されたのである。翌慶長5年には関ケ原の戦いがあり、戦国乱世は幕を閉じ江戸時代へ移ろうとしていた時であった。
 以後慈眼寺は横内村の人達の精神的な拠所として歩みを始めた。伝説であるからいつ頃のことか不明であるが、原因不明の怪火によって火災に遭っているという。東海道添いに建てられた慈眼寺は、江戸時代街道を上下する旅人が気軽に立寄り、旅の安全を祈ったり、木陰で疲れをいやしたり、雨宿りをしたりしたであろう。村人にとっても民家に隣接しているので気軽に山門をくぐりお参りができた庶民的な雰囲気を持った寺である。
 享保20年(1735)、横内村は美濃国岩村藩の飛領地となり、村内に陣屋が開設された。陣屋には代官、手代、目付役の藩士が家族とともに移り住み、駿河領5千石15ケ村の村々を支配した。武士達は任期が終わるまで陣屋で生活していたが、この地で亡くなると慈眼寺の墓地に埋葬した。境内には代官や藩士達の墓が7基程祀られている。
 安政元年(1854)の大地震では地盤の弱い横内村では民家はほとんど壊れ、寺も庫裡が倒壊してしまった。そこで明治3年(1870)近くの民家を移転改修して庫裡とした。さらに老朽化した本堂を明治20年走観和尚の時に新築した。現在の本堂、庫裡はこの時のものである。その後明治43年霊嶽雪静は寺格を上げ、法地寺院とし、宗教行事を慈眼寺が責任を持って行うようになった。
 戦後になった昭和38年10世覚心力雄の時庫裡を改築し、さらに現住職の昭和62年には檀信徒の勤労奉仕により竹庭を完成、平成2年には境内を整備し、平成8年には開山堂位牌堂を建立し、次第に寺観は整えられ、平成11年には開創4百年祭を計画している。横内は昔から職人が多く住み、その伝統は今なお受け継がれ、慈眼寺は里人の技術と汗で支えられている。

《代官地蔵尊 天明7年 1788) 建立》
美濃岩村藩 (岐阜県恵那郡岩村町) 横内陣屋の3代目代官であった田中清太夫首上は、宝暦11年 (1761)5月23日、78歳でこの地で没した。実家と離れていたためこの地で葬儀を行い、慈眼寺の境内に埋葬したが、後に嫡子田中上秀は菩提供養のため、寺に土地を寄進し、等身大の石の地蔵菩薩を刻み、墓地に安置した。地方巧者として善政を施した清太夫は村人にも親しまれていたので、地蔵菩薩は人々から 「お代官さん」と呼ばれ、毎年7月23日には供養祭を行う。昔は御詠歌奉詠や子供の相撲大会が行われ、戦後は8月23日の夜村人が集まり、盆踊りの行事を続け、楽しみながら2百年前の代官を供養している。

《抱地蔵尊 大正9年 (1920) 安置》
慈眼寺9世哲英雄伝和尚が愛知県半田市亀崎の東光おもかる寺に祀られている「重軽地蔵尊」を分霊し「抱地蔵」と名づけて、本堂の中に祀った。この地蔵菩薩は、人の吉凶や判断の是非に迷った時、石の地蔵様を抱きあげ、その軽重によって是か非かを伺うことができる。霊験あらたかなことで知られ、今でも深く信仰する参詣者が遠方より訪れる。

《宗吾大明神 明治38年 (1905) 建立》
 この宗吾大明神は、承応2年(1653)安房国(千葉県)佐倉藩の領民を救うために刑場の露と消えた義民・佐倉宗吾(惣五郎)の霊を祀ったものである。慈眼寺に祀られるようになった由来は、養蚕事業振興のために祀られたことによる。今でも農業の神として、五穀豊穣を祈願する々に尊崇されている。

《伝説 怪火》
今は昔、横内村を通る東海道は、1日に数千人の旅人が上下していた。そんなある日、1人の旅人が長旅の疲れを朝比奈川の横内橋のたもとでいやしていた。旅人はキセルを取り出し、火をつけて1服していた。川面を渡る風に乗って紫煙が土手の桜の梢に消えてゆく。二服目をすおうとしてキセルに残っている火種を出し煙草に火をつけた時、1陣の春風がさっとふきかかった。火のついたタバコはころりと落ちて、橋のたもとから街道を西に向かって生き物のように走りだした。万一火事にでもなったら大変だ。旅人は転がったタバコを踏みつけようと追いかけたが、春風に追われたタバコは転々としてとうとう慈眼寺の庫裡の下にもぐりこんでしまった。
 小さな火ではあるがもしものことがあってはと心配した旅人は、和尚に話し縁の下にまでもぐってタバコを捜したが、火のついたタバコは見つからなかった。旅人はくれぐれも火の用心を頼み、旅立って行った。
 ところが、その夜更けのことである。寺の書院から火事となり、紅蓮の炎が寺を包み、堂宇は灰燼に帰してしまった。あれほど捜しても発見できなかったタバコの火は消えているはずだし、和尚も気をつけていたのに不思議なことである。その後誰いうともなく「慈眼寺の怪火」と言い伝えられるようになった。


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