耕春院

日照山 耕春院
にっしょうざん こうしゅんいん

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【所在地】

藤枝市八幡967

【開創】

天正15年(1587)

【宗派】

曹洞宗 岡部町 総善寺末

【本尊】

釋迦牟尼如来

【由緒縁起】

寺伝によると、その昔耕春という真言宗の行者が、八幡山大谷の中腹に庵を結び真言宗の教えを広め、後に山の麓の現在地に移し、耕春院と名づけ開創されたという。寺伝によると、この耕春行者は京都岩清水八幡宮の別当職(神社の中に設けられた神宮寺の僧)であったとも言う。この八幡の地には源義家ゆかりの青山八幡宮が、耕春院とは指呼の間にあり、別当職というのも首肯できるが、詳しい記録は残っていない。寺の西北の山中に耕春行者の墓と言い伝えられている苔むした無縫塔があり、この地が庵の跡だと昔から伝承されてもいる。真言宗寺院として開創された耕春院も以後数代を重ねたが、室町時代に入ると永続が困難となり、無住の時代が続いた。
 天正15年(1587)、朝比奈の玉伝寺 (廃寺)を開いた積翁長善は、禅の教えを広め民衆を救うために、荒廃していた耕春院に入山し、里の人々の協力を得て荒寺を再建した。そこで真言宗を曹洞宗に改宗し、山号を日照山とし書名は元の名を受け継ぎ、総善寺末流第一道場とし、活きた寺院として立派によみがえらせた。その後、長善は師の智覚舜爺が本寺総善寺を退薫したのに伴い、給善寺3世として入山し朝比奈地区に四ケ寺の寺院を開創し、文禄三年(1594)8月2日、数々の功績を残して示寂した。
 耕春院の後を継いだ弟子の嶺山仝鷲は、師の遺志をよく継ぎ、近隣の人々に曹洞宗の教えを説き、広幡地区に次々に新しい寺院を開創した。水守仝居寺、上当間真福寺、鬼島如法寺、湖南叟寺、朝比奈玉伝寺(廃寺)岡部智光院(廃寺)村良大仲寺等を開創した。3代松山吟竜は上当間に蔵福寺(廃寺)を開き、耕春院は末寺八ケ寺を有する広幡地区の古本寺として、3代に渡る師弟の活躍によって教風宣揚の基礎を築きあげたのである。
 5世修外頓漸が住山中、隣接する八幡宮と境界争いがあったが寺社奉行の裁許により円満解決、また老朽化した堂字を延宝8年(1660)再建した。7世海運龍城は禅堂を建立し、修行僧の養成に力を注いだ。10世霊股龍川の明和8年(1771)には、豊田の岡村氏から山門を寄進された。この山門には曹洞宗復古運動で活躍した名僧月舟宗胡(1618~一1696)の筆による額が掲げられ、昭和53年の改修によって昔の面影のまま残されている。11世玉渾竜章の時本堂の再建にとりかかり、12世青運恩山が引き継ぎ、寛政8年(1796)12月念願の新本堂が落成した。この本堂もまた昭和58年に大改修をして、今でも昔の威観を呈している。
 代々の和尚と檀信徒は耕春院を守り、発展を遂げて来た。明治時代廃仏股釈の影響もあり、諸堂が壊れ一時衰退したが、明治38年、東宗賢光が21世として入山するや、諸堂を改修し檀信徒に曹洞宗の教えを広めた。その遺志を受け継ぎ戦後になって二四世東階穎之は数々の復興に着手した。昭和53年には戦争で供出した釣鐘を新たに鋳造、翌54年には山門、58年には本堂、鐘楼堂の大改修を果たした。25世を継いだ東水知之も檀信徒の協力を得て、立山炊元年には庫裡を新築し、白塀を築き境内地も整備し、平成6年9月18日には開山四百回大遠忌を盛会裡に厳修した。行持綿密の開山の遺風は今なお住職檀信徒ともども守り続けている。


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