補陀洛寺

普門山 補陀洛寺
ふもんざん ほだらくじ

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【所在地】

藤枝市花倉1038

【開創】

【宗派】

曹洞宗 藤枝市 盤脚院末

【本尊】

馬頭観世音菩薩

【由緒縁起】

 普門山補陀洛寺は花倉の里山のふところに抱かれるようにひそやかにたたずんでいる山寺である。その創建は寺伝によると神亀2年(725) 行基の開創というから、1千3百年近い歴史を持つ古剃中の古刹である。開創を証するものは残っていないので、伝説の域を脱し得ないが、北方の安楽寺(神亀5年開創) とともに、葉梨地区を代表する古寺である。補陀洛寺という寺名のとおり本尊は馬頭観世音で、行基の作であるという。行基は天智天皇の7年(666)和泉の国で生まれ、15歳で出家し諸国を巡錫し、寺院を建立し土木事業を行った。後聖武天皇に帰依され、東大寺大仏書に尽力し、大僧正位を授けられ、天平勝宝元年(749)82歳で示寂した高僧である。
 開創のころは、現在の場所と指呼の間にある聖坪山にあったが、火災のため建物は灰燼に帰した。が、本尊の警様は手を焼いたが無事であった。そこで現在地に移り再建されたという。後、今川館が遍照光寺の前にできると、警様の巡礼者が通行するに不便となったため、上川の半谷より山越しの参誉通って参詣するようになった。
 戦国争乱の時代には花倉城も築かれ、天文5年(1536)花倉の乱では山向うの衣原が戦場にもなったりして、補陀洛寺も無住になり廃れた。この荒廃した寺を再興したのが、脱心和尚である。江戸時代に入り世の中も落ちついた慶長10年(1605)、脱心は師匠の盤脚院三世巨州梵鯨を開山に拝請して、曹洞宗に改宗され補陀洛寺は再興された。由緒ある讐様は庶民の篤い信仰を受け、駿河…観音七番札所として知られ、今なお参拝者が訪れ、本堂の天井には千社札が沢山はられている。
 昭和43年、曹洞宗では無住寺院や弱小寺院を本寺に合併する指導があり、補陀洛寺も荒廃していたため本寺盤脚院に合併し廃寺とした。しかし、観音霊場として参拝者もあり、行基菩薩ゆかりの古利であることから、現住職の発願により今までの「補陀落寺」を「補陀洛寺」と改名し、平成7年再興した。


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