偏照寺

華蔵山 偏照寺
けぞうざん へんじょうじ

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【所在地】

藤枝市花倉397-1

【開創】

元亀2、3年(1571~1572)

【宗派】

曹洞宗 藤枝市 心岳寺末

【本尊】

釈迦牟尼如来

【由緒縁起】

華蔵山偏照寺は守護大名今川家と深くかかわった寺で、今川氏の興亡を抜きにしては語れない古刹である。2代目範氏は最初遠江国の守護職であったが、駿河への勢力拡大を図って葉梨荘に花倉城を築いた。文和3年(1354)のことであったと言われている。築城に伴って居館を建て、重臣達の家屋敷を設けた。さらに一族と家臣団の精神的結束を確かにする象徴として八幡宮と遍照光寺を創建した。
 延文元年(1356)今川範氏は京都泉涌寺十二世朴文思惇を開山に請して遍照光寺を開創した。偏照寺は御寺とも呼ばれる皇室とのゆかりの深い四宗兼学の真言律宗の寺である。遍照光寺も真言律宗として開創され、今川家の氏寺として、また一族家臣の子弟教育の場として、泉涌寺系の住職によって法灯を続けてきた。今川氏は範氏-泰範-範政と3世60年間、葉梨庄を拠点に一族の発展を図った。今川氏の発展に伴って遍照光寺も興隆し、随心院・東北坊等の塔頭や子院を持つ大伽藍を持つ大寺となった。今川一族の男子もこの寺で修行を積み、住職を務め、さらに出世して京都泉涌寺や奈良唐招提寺の住職となった僧もいた。その主な住僧をあげると、
 頼忠律師-今川6代義忠の弟
 南江照公律師-頼忠の法弟子、泉涌寺五五世、島田慶寿寺開山 
 天林律師-泉奘和尚の師 
 象耳泉奘和尚-今川七代氏親四男 泉涌寺六九世 唐招提寺五七世
 玄広恵探和尚-今川七代氏親三男良真、花倉の乱にて没す
等が記録に残っている。また文明13年(1481)有度郡久能寺釈迦涅槃像製作の折には、遍照光寺より10余名の僧が参加したという記録があることから、当時の遍照寺は数10名の僧が修行していたことが推測される。今川氏の力強い支援を受けて発展した遍照光寺も、開創から180年程経過した天文5年(1536)大事件が起こった。
 大永6年(1526)、戦国大名として駿河遠江の両国に勢力を固めた今川七代氏親が54歳で没した。8代を継いだのは嫡男氏輝であった。ところが11年後の天文5年(1536)3月17日、氏輝とその弟彦五郎の2人が不思議なことに同じ日に病死してしまったのである。この急死事件によって引きおこされたのが、世に言う「花倉の乱」である。
 氏親の3男玄広恵探(良真)と5男の梅岳承芳(義元)の2人は長男の氏輝が家督を継いでいたので子供の頃から出家していた。恵探は遍照光寺に、承芳は富士の善得寺にいたが、2人の兄の急死によって2人とも還俗し、今川家9代の後継者として名乗りをあげ、旧来の家臣団を味方につけ反目しあった。氏親の正妻(寿慶尼)の子である承芳は、母寿慶尼や軍師雪斎長老の後押しを受け、天文5年6月10日、恵探側の軍が籠っていた方ノ上城(焼津市万上)を急襲した。方ノ上城は落城し、敗残兵は城を捨てて花倉城に逃げたため、大将岡部親綱の承芳の軍は花倉城に総攻撃をかけた。多勢に無勢、恵探側は支えきれず、山を越えて瀬戸谷高山寺に逃れたが、ここも火をかけられて追いたてられ、普門寺にて自刀して果てた。24歳の若さだった。
 この争乱の兵火により遍照光寺の大伽藍も烏有に帰し、時の住職恵進比丘は奈良唐招提寺に逃れたという。その後勝った承芳-今川義元は今川家9代となり、雪斎長老の補佐を受けて勢力を伸ばし、東海の雄たる戦国大名に成長した。その後遍照光寺は永禄11年 (1568) 武田氏の兵火により花倉館とともに再び灰塵に帰し、貴重な寺宝や記録も焼失するとともに、今川氏も滅びた。
 この荒廃した遍照光寺を曹洞宗に改宗し、寺名も編照寺と改めて再興したのが、当時心岳寺4世として名声の高かった蒲山孝順であった。孝順は当時谷稲葉に隠棲していた公家の三条実望、公兄父子の帰依を受け、近在に曹洞宗寺院を開創し、光心大浦禅師の禅師号を賜った名僧である。(心岳寺の項に詳述)花倉村の人々もその名声と徳にすがり、荒廃していた循照寺を再興することを依頼した。浦山の快諾を得て村人も一致協力して堂字を再興し、禰照寺は花倉村の里人の寺として蘇った。再興された年は寺記によると元亀二年(1571) か3年であると言う。
 江戸時代に入っても曹洞宗の禅寺としての法灯を守り続けて来た。安永六年(1777) 8月、大雨のため裏山が崩壊し、堂字が倒壊し、古い墓地も埋没したが、堂字はその後再建された。この古い墓地は開基今川範氏と嫡子氏家のものであったが、昭和48年秋、現編照寺の床下より発見され、53年五輪塔二基を本堂東側の地に移し顕彰した。往時の遍照光寺の繁栄を物語るものは、この苔むした二基の五輪塔だけである。
 創建以来650年の歳月と寺運の盛衰を経て来た循照寺は、現在少ない檀信徒ではあるが、由緒深い歴史を誇りとして住職や監寺と里人の手で大切にその法灯を守り続けている。近年墓地を造成し平成7年には客殿を増築し、徐々に寺観は整えられて来た。


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