【由緒縁起】
藤枝市街から葉梨街道を西に向って6・5キロ程進むと、西方の里の左側の山腹に大きな観世音菩薩の姿が目にとびこんでくる。現住職の発願により平成5年3月31日、永平寺丹羽廉芳禅師を迎えて盛大な落慶開眼式を行った藤枝大観音である。盤脚院は山の縁に抱かれながら、二重入母屋造りの堂々たる本堂、開山堂、位牌堂、庫院、書院、半僧坊堂、山門が甍を連らね、裏庭には池泉式庭園を設け、伽藍の完備した禅寺らしい風格を備えている。寺の西側の山裾には観音様に見守られている広大な藤枝霊園があり、墓石が整然と並んでいる。
盤脚院は記録上では寛永8年 (1631)開創という比較的新しい開創であるが、それ以前から存在していて、古伝では真言宗であったとも、また臨済宗であったとも言われている。文明17年(1485)には、既に曹洞宗寺院として記録に出てくるのでかなり古い時代から存在していたと考えられる。文明17年京都五山の僧でもあり、漢詩文の大家でもあった万里集九が、太田道潅(1432~1486扇谷上杉家の臣築城術和歌に優れ、江戸城を築いた)に招かれて江戸に下る途中、盤脚寺(盤脚院)に寄った。彼の紀行詩文集『梅花無尽蔵』にこの時のことが記されている。
「20日、黎明に袖浦を出で、午時葉梨庄日遣山盤脚寺に入る。(中略)今朝蓐食盤脚に入り、豪光老主人に対面す。盤脚和尚は桃圓山定輪寺永富禅師の法弟なり。(略)」
とあるように、この時の住職は曹洞宗の裾野市定輪寺学甫永富と兄弟弟子の無方□相であった。その後江戸時代に入ってこの宝輪寺の法系がたえ、無住となっていたため、甲府恵運院五世寰室玄尊の法を継いだ国州天越が入山し、荒れていた日遣山盤脚寺を再興し宝樹山盤脚院と改名した。恵雲院六世国州天越は学徳兼備の名僧であるとともに、徳川家康の囲碁相手でもあったという。家康は、将軍職を秀忠に譲り駿府城に隠居していた頃、田中城に来ては葉梨の里に鷹狩りにしばしば訪れた。その折盤脚院に寄り、天越と碁を楽しんだ。後に家康に呼ばれた天越は駿府城の近くに浄元寺を開創して、盤脚院を2世日童雲昨に譲り転往した。後三代将軍家光は開山天越と家康との親交により、朱印高十石の寺領を安堵したため、天越は中興開山となった。以来盤脚院はこの志太地区でも珍しい通幻派と呼ばれる寺院となった。通幻派の本末関係は
能登大本山総持寺-小田原最乗寺-伊豆最勝院-長野県東部町走津院-甲府恵雲院-盤脚院となる。
以来盤脚院は葉梨西方村を中心に禅の教えを広め、先祖供養や施食会、授戒会、涅槃会等の宗教行事を通じて里人に仏心を植えた。また、結制安居の修行によって弟子達を育て、末寺九ケ寺を開き(現在は静岡の浄元寺と花倉の補陀洛寺の二ケ寺)通元派の寺院としての法灯を守って来た。開創当時の本堂は現在藤枝観音像の麓に建てられていたが、火災で焼失したため、明和8年(1777)現在の場所に移転し、元の本堂と同じ形の萱葺きの本堂を再建し、昭和30年瓦屋根に改められて現在に至っている。庫裡は昭和10年瀬戸谷の庄屋渡辺家の母屋を5百円で買い1万円かけて移築し、平成9年屋根替を行った。また開山堂と位牌堂は昭和43年に再建した。本堂左側にあるお堂は半僧坊を祀ってある。この半僧坊は明治中期(明治15年~20年)19代雪嶽画龍の時、村内に病気が流行したため、奥山の半僧坊(引佐町方広寺)より御分身をいただき、病魔退散平癒のために建立されたものである。
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