長慶寺

大楊山 長慶寺
たいようざん ちょうけいじ

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【所在地】

藤枝市下之郷1225

【開創】

嘉慶年間(1387~1388)

【宗派】

臨済宗 妙心寺派 京都 妙心寺末

【本尊】

釋迦牟尼如来 春日仏師作

【由緒縁起】

  今川氏の氏寺であった長慶寺は、今川三代泰範が開基として開創された由緒ある寺院である。『駿河記』等によると、嘉慶年間(1387~1388)鬼岩寺末の真言宗として開創されたと記されている。開山は不明であるが、開基の今川泰範は範氏の次男であり若い頃は鎌倉建長寺に入り修行していたが、兄の氏家が若くして没したため還俗して、今川三代を継いだ。足利義満に仕え、明徳の乱(1391)応永の乱(1399)で功名をあげ、応永7年(1400)駿河と遠江2ヶ国の守護職に任ぜられた。それ以前泰範の父範氏は文和2年頃(1353)駿河の地を治める根拠地として島田の大津庄には大津城を、葉梨庄には花倉城を築いた。この築城に並行して家臣の屋敷を定め、一族の菩提を弔ったり、男子教育の場として氏寺を建立した。花倉には遍照光寺を、下之郷には長慶寺が開創されたのである。開基泰範は嘉慶2年(1409)76歳の生涯を閉じると、遺骸は長慶寺に葬られたと言われ、その五輪塔が現在境内地に残っている。
 その後長慶寺は真言宗として法灯を150年間余にわたって守り続けたが、今川義元の軍師であった大原崇字(雪斎長老)の姉と言われている(駿河記)太年凪が廃れていた長慶寺の再興に手がけ、さらに太原崇字の功労で再興を果たした。宗派も真言宗から臨済宗妙心寺派となり、大原は中興開山となったのである。
 太原崇孚つまり雪斎は、今川家の家臣であった庵原氏の出身である。9歳の時富士の善得寺に入寺し、14歳で梅岳承芳(今川義元)とともに京都に上り、建仁寺や妙心寺で修行を積んだ後、再び善得寺に帰山した。大永6年(1526)今川7代の氏親が没したあとを氏輝が今川家8代となった。ところが、天文5年3月17日氏輝と弟の彦五郎の兄弟は同じ日に病没した。善得寺にいた承芳は還俗して義元と名乗り、異母兄良案(玄広恵探)と家督をめぐって争った。いわゆる花倉の乱である。勝利を収めた義元は今川家9代となり、雪斎は義元の軍師となって数多くの戦いに参加し、他国と交渉をまとめたりして遠江から三河を平定し、今川家を東海の雄として成長させた。雪着は京都五山の建仁寺では禅修行だけでなく、文学、政治学、兵法を学んだ。義元の相談役となり、禅僧でありながら時には合戦の指揮をとったこともあった。宗教界における雪斎は静岡に臨済宗を創建し、晩年にはこの長慶寺に隠棲し古くなった堂字の再建を果した後、弘治元年 (1555)10月10日、60歳の生涯を閉じた。多方面に渡って活躍した雪斎の功績をたたえて、後水尾天皇から「宝珠護国禅師」の勅賜号を賜った傑僧であり、名僧であった。
 天文20年(1551)以前の長慶寺には大沢院・安養寺・修善院の三ケ寺の塔頭寺院(大寺に所属する子院)を有していた。大沢院と安養寺は大岩臨済寺に移転したが、今川家の氏寺として花倉の遍照光寺とともに格式の高さを誇っていた。
 この格式高かった長慶寺も今川家の没落とともに、寺運は急速に衰退し荒廃した。しかし戦国争乱の時代が収まり、江戸時代に入ると静かな山里の寺に戻った。そして下之郷の檀信徒の篤い信仰に支えられ、臨済禅の法灯はずっと相続されてきた。天保8年(1837)火災の憂き目に遭い、諸堂を焼失したが、その後再建された。
 昭和6年、開山堂建立のため本堂の裏を掘り下げたところ、地中から金銅製の観音様が発見された。詳しい調査は今後の課題であるが、鎌倉期の仏像の特徴を持っており、雪斎長老の念持仏(日常近くにおいて礼拝する仏像)ではないかと言われている。今川家ゆかりの寺であった長慶寺は6百年の歴史を持った古刹であるが、昔の面影を残しているものとして
 ”雪斎長老の無縫塔一基”
 ”今川泰範の五輪塔一基”
 ”今川家三代長慶寺開基”
 ”観世音菩薩像 金銅製 鎌倉時代?”
 ”今川義元発給文書 三通 (大沢寺領之事、安養寺領之事、長慶寺之事)”
がある。由緒深い長慶寺も平成8年庫院を修復し、境内も整備され、寺院も整えられてきた。


《伝説 陀蛻(へびのぬけがら)》
 文化6年(1809)『駿河記』の著者、桑原藤泰が長慶寺を訪れ、今川泰範の墓をお参りした。すると五輪塔の上に蛇のぬけがらがかかっていたので、このことについて聞いたところ不思議な話を聞いた。住職の話によると前の住職の時、ある僧がこの寺を訪れた。そこで話がはずんだ。泰範公の塔の中に今川義元の分骨を合葬したと言い伝えられている。そのことを記録した文書は残っていないが、寺の位牌には両名の合同位牌であるから何か言われがあるだろう。と前の住職は墓の中にある墓誌をさがし確認したいと客僧に相談した。
 そこで二人が五輪塔の笠石をとりのけたところ、塔の中央に丸い石柱が台座を貫いている。この石柱を2、3寸引きあげたところ、小さな蛇が石柱にまといついていた。うろこは五色の斑点があり、金色の光を放っている。小蛇はみるみるうちに太くなり首をあげて奮慾の勢いをなしてから、柱の下にもぐってしまった。二人とも大変驚き、怖くなったが、もう一度石柱を引き抜こうとして持ちあげた。すると小蛇はさきほどよりもっと体を膨らませ、首をもちあげ、眼は赤く染まり怒りの形相を張らせている。思わず背筋が寒くなった二人は意気消沈し、身の毛もよだち、石柱を抜き取ることをやめ、小蛇をそのままにして笠石を元のように戻しておいた。その恐怖から客僧もしばらくして自分の寺に帰っていった。
 その夜のことである。住職は悪感が起り、陰部がにわかに痛み出しはれあがり、高熱を発した。苦痛に耐えられず医師を招いて服薬したが治らない。そのうちに下腹部だけでなく身体中がうみ、まもなく示寂したという。
 その後桑原藤泰が益津郡右脇村の宝積寺を訪れ、旧知の素白和尚が住持だったので1泊した。話がはずみ、長慶寺の奇談を話したところ、素自和尚は手を打って答えた。その客僧とは実は私のことなのである。実は私もあの時寺に帰山すると寒気を覚え高熱が出た。便所に行くと陰部がはれあがり、痺痛で1晩中眠れない翌朝医師に行き治療してもらったが、なかなか治らない。しばらく病床に伏していると長慶寺和尚も同じような病状であると聞いた。私はこれはきっとあの泰範の塔の神霊のたたりに違いないと思い、苦痛があるときは詣経し、霊廟をあけたことを陳謝し、今川家の菩提供養を続けた。するとしばらくするとようやく病も平癒したが、あの恐ろしさは今だに忘れられない。
 私(桑原藤泰)が見たあの蛇のぬけがらはどんな時にも塔にまとっているという。風雨がはげしくて洗い流されても、翌朝にはまたまといついているとも言う。不思議な話である。


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