【由緒縁起】
最林寺は『駿河記』(桑原藤泰著・文政3年)や『駿河志料』(中村高平著・文久元年)によると、開基朝比奈氏の旧宅の跡に建立されたという。最林寺の裏の小丘陵(現在は国道建設によって撤去)には戦国時代の砦の跡があり、この守将は今川の臣朝比奈氏一族であったと考えられる。開創は地誌によると天文15年(『梅林院史』では天文5年説)と伝えられ、開基は殿村の総善寺と羽佐間村の喜雲寺と同じ朝比奈備中守泰能、法名功徳院喜雲道瑞居士である。
開山の梅林院五世霊屋契鑑は、梅林院三世心包玄契の弟子であるが、二世の和僧良穆(無学大休禅師)に随って常陸国に赴き、良穆の開いた龍泉院の二世となった。その後常陸国新治(新治郡八郷町宇治会)に源照院を開いた後駿河国に戻り、梅林院の五世となった。天文8年(1539)には石雲院の輪住(任期制の住職)となり、天文15年に最林寺を創建し、同23年には朝比奈の総善寺を改宗して開創し、晩年には喜雲寺と万年寺を開き、永禄四年(1561)4月8日多くの人々に惜しまれながら示寂した。現在最林寺には、天文七年に染筆した開山霊屋の七言絶句の墨跡が保存されている。その筆跡も詩の内容も奇を衒わぬ爽やかな曹洞禅僧らしいものである。
ところで、この天文年間から永禄年間にかけて三河吉良城の城主吉良上野介義安が今川義元に捕えられ、この薮田村に幽閉されていたことがあった。『駿河志料』によると、その幽居していたのが、最林寺か中薮田の大屋敷と呼ばれた所であろうという。
その後最林寺は中ノ合の潅渓寺の他に浄福寺(廃寺)・汲月院(廃寺)の三ケ村の末寺を持ち、開山の控えめな禅風を守りながら、村の檀信徒とともにその法灯を守り続けて来た。時は流れ昭和50年代には国道のバイパスが完成するに伴い、静かな山里だったこの地区も宅地化が急速に進展した。最林寺も将来の寺運の発展を願って昭和58年には檀信徒の協力により庫院と書院を新築し、墓地境内地を整備し、さらに平成9年には開山堂・位牌堂を新築した。
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