耕雲寺

種月山 耕雲寺
しゅげつざん こううんじ

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【所在地】

藤枝市時ヶ谷253

【開創】

天正~文禄年間

【宗派】

曹洞宗 藤枝市 洞雲寺末

【本尊】

子安地蔵菩薩

【由緒縁起】

 耕雲寺は戦国時代末、善誉作公首座が村人たちと協力して堂字を建立し、学徳兼備の誉れ高かった洞雲寺四世覚翁文等を開山に請して開創された。首座というのは修行僧の役名の1つで、修行僧の筆頭となる代表を意味している。耕雲寺の本尊は地蔵菩薩であるが、堂内には高さ1丈5尺2寸(2メートル余)もある薬師如来が祀られている。作者や製作年代は不明である。
 また堂内には不思議な縁で耕雲寺に安置されることになった観世音菩薩も祀られている。宝永3年(1706)に記された観世音菩薩にまつわる次のような縁起書が残されている。
 ずっと昔、この耕雲寺の近く葉梨川井尻橋のたもとの観音崎と称するところに観音堂があった。長い年月の間に観音様もお堂もなくなり、礎石を残すのみであった。元禄14年 (1701) 耕雲寺より2里程離れた瀬戸谷の里に全久という坊さんがいた。全久は尺1寸程の小型の馬頭観音様を祀り拝んでいた。この観音様をある人が熱心に求めたので全久はあっさり与えてしまった。ところが、観音様をもらい受けた人の家では思わぬ不幸が続いたので、再び全久のところに丁重に戻した。そこでこの観音菩薩を観音崎の観音堂に遷座して祀り村人達が願をかけると霊験すこぶるあらたかである。住職もこの観音様こそ昔ここに安置されていた行基菩薩の作られた観音様に違いないと喜んでいた。
 翌元禄15年3月14日の夜、村人の清三郎と平八の2人が全く同じような不思議な夢を見た。その夢の中で観音様が
 「大橋より三間下あたりの崩れたところを二人で掘り、埋まっている板で観音堂を建立せよ。」
と告げられた。翌日2人は夢の話をすると内容がまったく同じである。驚いた2人は言われた場所に行って掘り始めると、誰とわからぬ男が手伝ってくれたので、3人で汗を流しながら6尺ほど掘った。すると夢のお告げのとおり大きな板が出て来た。さらに掘ると横幅3尺5寸、長さ4間程の板が掘り出された。形を見ると大きな船であった。この板を持ち帰り、村人に話すと皆大いに驚き夢のお告げのとおりであったことに感動して早速観音堂を建立した。
 それから3年程過ぎた宝永2年 (1705)5月、土の中に残して来た板をさらに掘り出したところ1間半ほどの板が出て来た。以前の部分とあわせると5間半(10メートル)もある大船であった。そこで、この木を使って三十三観音を彫り、観音堂に安置した。その後この観音堂は老朽化のため壊され、観世音菩薩は耕雲寺に遷座し、今本堂に安置されている。
 明治31年6月この地区を豪雨が襲い、耕雲寺の裏山が崩壊し、流出した土砂によって堂字が全壊したので、檀信徒一同協力して改築した。その後昭和51年藤枝バイパス道の建設に伴い、寺の所有地の売却代金を資金にして翌52年本堂を新築した。昭和58年住職の示寂以後無住となったが、耕雲寺護持会の協力により平成6年には墓地が造成され、寺観も整えられた。


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