【由緒縁起】
藤枝市街から7キロ程北に行くと、山を背にした真新しい伽藍が目にとびこんでくる。潅渓寺のある中ノ合の里は、今日では中心地から離れた鄙であるが、鎌倉時代から戦国時代にかけては、鎌倉街道の脇道が通っていた。奈良・平安時代中期までの官道は、島田初倉-焼津小川-日本坂という海岸添いを通るルートであったが、鎌倉時代に入ると馬上の武士集団の移動のために、湿地帯をさけて、雨の日にも通行可能な山裾のルートを利用するようになった。島田東光寺-谷稲葉-花倉-中ノ合-高田-岡部への脇道が開かれたのである。すると、葉梨の地区には都の戦乱を避けた公家や、今川一族が移り住むようになった。それに伴ってこの地区にも新しい寺院が開創されるようになったのである。この葉梨地区に古い由緒や伝説を持った神社仏閣が多いのは、このような理由による。
鎌倉時代の初期の承久年間 (1217~1221)、波梨入道と呼ばれた従五位下白尾三郎行政という公家が、隠居してこの葉梨の里に住んでいたという。記録が残されていないので伝説的人物として扱われているが、葉梨入道は毘沙門天を深く信仰していて「生毘沙門」と称されていたという。毘沙門天は別名多門天とも倶毘羅王とも称し、仏法を守る四天王の一つで北方を守護し、甲胃をつけ右手の上に宝塔を載せている。波梨入道が没すると、その遺骸を葬った傍に毘沙門堂を建立した。現在うすい坂の西の入口に建っている毘沙門堂がそれであり、初めは真言宗に属していたと言われ、後には浄土宗に転宗した。このお堂の脇には「入道が滝」と呼ばれる霊泉があり、小さいけれど今でも清らかな水が流れているが、「潅渓寺」という寺名はこの滝に由来しているものと思われる。
『駿河記』(桑原藤泰著文政元年1818)によると、潅渓寺は永享元年 (1429) 頃藤枝の西光寺の末寺になったと記されているから、曹洞宗に改宗される以前は浄土宗であった。開山の虎山については名前だけが言い伝えられているだけで詳しいことは不明である。その後天正8年(1580)依田信春によって再興され、最林寺三世歓室長悟によって曹洞宗となった。さらに貞享2年 (1685) 8月最林寺八世匝天恕周が寺領4石5斗の地を受けたため、匝天は中興開山とされた。潅渓寺では開基として二人の位牌を祀っている。戦国時代末期武田信玄の家臣として活躍した依田常陸介信藩と弟信春である。信藩は天正8年 (1580) 田中城主となり、徳川家康軍の猛攻に屈しなかった名将として知られ、天正11年 (1582) 2月23日信州岩尾城にて36歳の若さで戦死した。弟の信春も同じ戦いで34歳で没している。また潅渓寺は今川家の香花所 (菩提寺)になったこともあり、奥方の墓があったとも言われるが詳しいことは不明である。いずれにせよ潅渓寺は峠の要所に祀られた毘沙門様をもとにして創建され、鎌倉時代から領主や村人や旅人達の信仰に支えられ、法灯を守り続けて来た。
この毘沙門様は日本三毘沙門の1つと伝えられ、現在も近在の人々に信仰され、毎年1月2日の大祭には善男善女の参詣で賑やかである。一方、3百メートル程離れたところにある潅渓寺は、昭和4年珠燦澄音の代に寺格を法地にあげた。さらに平成2年6月には現住職と檀信徒の悲願であった本堂の再建をはたし、入母屋造りの蓋が静かな山里に聳えている。
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