安楽寺

妙台山 自性院 安楽寺
みょうたいざん じしょういん あんらくじ

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【所在地】

藤枝市北方962

【開創】

神亀5年(728)

【宗派】

天台宗 東京都 寛永寺末

【本尊】

聖観世音菩薩 伝 恵心僧都作

【由緒縁起】

 安楽寺は藤枝市内で唯一の天台宗寺院の古刹である。葉梨の里北方の山の中腹にあり、山岳寺院らしい趣きを持っている。その創建は、原の清水寺や小坂の鬼岩寺と同じ頃の奈良時代のことである。寺伝によると、神亀5年(726) 行基が東国行脚の折にこの地を訪れたことによって開創されたという。行基は奈良時代民衆のために仏の教えを説き、仏教を広めた高僧であった。橋を架けたり池を作ったり道をなおしたりして民衆のために尽くしたので菩薩の生まれかわりだと言われ、聖武天皇の要請を受け大仏建立にも尽力した僧であった。
 行基が東国行脚の折に、この葉梨の里まで来て、東の山中に大きな滝(後世「白藤の滝」と名づけられた)のあることを知りその滝を訪れた。そして、滝の音を聴き、
 「この滝の響きはまことに妙音である。薬師如来の陀羅尼を諷誦(仏を讃えた真言を唱えること)しているが如きである。この地こそ大医王薬師如来の有縁の地である。」
と言い、滝の傍に草庵を結び、一刀三礼の行法を修しながら、薬師如来の仏像を彫りあげた。また背後の山を見てその山容が妙法心蓮台に似ていると言い、この庵を妙台山自性院と名づけて寺を開創した。行基が彫った薬師如来であるという証拠こそ無いが、当時は疫病平癒の薬師信仰が盛んであり、民衆に尽くした行基の面目を伝えている。
 その後360年程過ぎた平安時代、天台宗総本山比叡山延暦寺の22代座主であった暹賀が傷んでいた堂字を再建し、天台宗安楽寺と改名した。行基開創の由緒を持つ安楽寺は、現世利益を願う民衆の信仰を集め、山里を訪れる参拝者で賑った。当時は12院もの塔頭諸堂を持つ大伽藍を有し、荘園を持ち寺運は興隆していた。今でも安楽寺周辺には小字名として般若坊、定智坊、中之坊、常楽坊、伝転坊、念仏坊、山寺、薬師平の名が残っており、往事の規模の大きさが偲ばれる。
 戦国時代に入り、永禄11年(1568)武田信玄が駿河に攻め寄せた時に兵火に遭い、大伽藍も灰燼に帰してしまった。その時の住職秀賢は再建に尽力し、慶長年間(1596~1614)にようやく諸堂を整えることができた。いきさつは不明であるが、この時から安楽寺は江戸の寛永寺の末寺になったという。また江戸時代には安楽寺の住職は、花倉八幡宮と八幡青山八幡宮の別当職(神仏習合説に基いて神社に設けられた寺院の住職)を兼ね、8石の役料を給された。祭典の時には住職は馬に乗って、八幡村まで出かけ、放生会(8月15日に寺や神社で行った生類を放流する儀式)と牛王加持(牛王の加護護持を祈る儀式)の行法を行っていた。明治維新後は神仏分離政策により、八幡宮との関係はなくなった。
 千三百年近い栄枯盛衰の歴史を経た安楽寺は、今も北方の山中に静かにたたずんでいる。往事の大伽藍こそないが、本堂、庫院、山門、薬師堂、常楽坊とを甍を連ねた諸堂には歴史の重みから来る風格がある。寺宝として伝えられている貴重な文化財も残されている。永正元年(1504)製作と天文7年(1538)製作(県指定重要文化財)の鰐口(仏殿、社殿前の軒下につるして鳴らす金属製の法具)と、武田信玄使用と伝えられている水晶の大数珠等が残されている。県指定の鰐口は直径20.5センチ、厚さ7センチの青銅製で、周囲に19個の八曜星の円文が配された精巧な作品である。願主大代助二郎が当時安楽寺に祀られていた大法天皇(須佐之男命)に奉献したものと伝えられている。天文7年(1538)大工又二郎によって製作された鰐口の摩耗の痕跡を見ると、往事の参詣者の願いが伝わってくる気がする。


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