藤枝宿の歴史についての説明です。「虫眼鏡マーク」が付いている画像はクリックで拡大します。


江戸時代

 藤枝宿(ふじえだじゅく)は、東海道五十三次の22番目の宿場です。近世の宿場の整備は徳川家康によって始められ、先ず東海道、続いて中山道と順次進められていきました。関ヶ原の合戦で大勝した家康は、各宿駅に馬を設置し、江戸から馬を乗り継いで遠隔の地へも往復できる仕組みを作り、全国を掌握したのです。東海道では、1601年(慶長6年)に品川から大津迄を53駅と定めました。その53の宿場を指して東海道五十三次と言います。その中で、藤枝宿は江戸から49里30町44間(約200km)。東隣の岡部宿へ1里26町(約7km)、西隣の島田宿へ2里8町(約9km)のところにあります。近くを流れる瀬戸川は乾期は仮橋が架けられ、通常の水量の時は歩行渡しを利用しました。藤枝宿は、歴代の城主が江戸幕府の要職を務めた田中城を仰ぐ本多家4万石の田中藩の城下町でもあり、また塩の産地であった田沼意次の所領相良に通じる田沼街道や、高根白山神社への参道高根街道・瀬戸谷街道などの交通の要衝として、また商業地としても栄えました。宿場町として、大層なにぎわいを見せた藤枝宿。その中に、ところどころ城下町の風情が漂う、独特の雰囲気をもった町だったのです。


東海道分間延絵図(藤枝宿近辺)
東京国立博物館所蔵

二つの郡の町で作られた、独特の形の宿場。

 藤枝宿は、他の宿場のように、一つの町や村が宿場になったものではありませんでした。志太郡、益津郡(益頭郡)の街道沿いの八つの村の街道に面した一部の町が、それぞれの親村に属しながら宿駅の役割を担ったのです。その中心となったのが上伝馬町・下伝馬町で、上伝馬では下りを、下伝馬町では上りをと伝馬業務を分担していました。そして、業務をたすける町として、上伝馬町には、川原町・木町・鍛冶町・吹屋町の4ヶ町が、下伝馬町には長楽寺町・左車町の2ヶ町がおかれ、これから6ヶ町を平町と呼んでいました。
 6ヶ町と同じように街道筋にありながら、伝馬など諸役を免除された町があります。長楽寺町と下伝馬町との間にある白子町で、この町は、天正10年(1582)の本能寺の変の際、駿河へ逃げる途中の徳川家康を助けた伊勢白子の小川孫三がその恩功から当地に住むことを許され、新白子と名付けて地子・諸役御免の朱印状を賜わったことに由来しています。


上り下りで役割を分担した、二つの問屋場。

 藤枝宿が宿駅となった慶長6年(1601)から数年間、宿場には問屋場(人馬の継立、助郷賦課等の業務を行った。)が上伝馬町1ヶ所しかなく、ここで上り下りすべての伝馬業務を行っていました。しかし、宿場の中心田中城から離れており、その不便さから城に近い大手口の下伝馬町に新たに問屋場が設けられました。以後、問屋場は2ヶ所となり、上伝馬町では京都から江戸への下りの荷物を、下伝馬町では江戸から京都への上りの荷物を扱ったのです。
 問屋場が常備する100人・100頭の人馬は、人足11人ずつと馬50頭ずつは両伝馬町で負担し、残り78人の人足は6ヶ町の平町が負担していました。そして、両問屋場には、問屋場の総責任者・問屋、年寄、帳付、馬指、人足指などの役人が毎日詰めており、伝馬業務に当たっていたのです。


歌川広重 東海道五十三次 人馬継立図 (藤枝:問屋場前)
藤枝市郷土博物館所蔵

天保13年(1842年)藤枝宿家並みと職業図より

 天保13年(1842年)の藤枝宿の家並みの図が残っていますが、これを見ると向かい合った鍛冶町と吹屋町を含めて、東入口の左車町木戸から西入口の川原町まで19町12間(約2km)の長さで、総家数1,061軒、人口4,425人と県下の宿場の中でも有数の規模を誇っており、2軒の本陣(武士や公家用が宿泊・休憩をした。)、2ヶ所の問屋場、大6・中20・小21合わせて47軒の旅籠に加え、旅人や近在の人々を相にした商店、刀鍛冶など武士相手の店などが軒を並べ宿場町として大層な賑わいをみせていました。また、両木戸と田中城の入口大手口には番所が設けられ、番所には城の役人が詰めて宿場の警備に当たっていました。


東海道藤枝宿往還家並図(天保十三年)より

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明治時代

 明治元年(1868年)9月、第7代藩主・本多正納は、徳川家達が駿府藩70万石の藩主として駿河・遠江・三河などを支配することになったことから、安房長尾藩(千葉県館山市)に移封され、田中藩は廃藩となり、城下町としての藤枝宿もなくなりました。
 明治に入り鉄道が整備され始め、東海道本線が建設される際、当初は宇津ノ谷峠 ― 藤枝宿 ― 島田宿というルートとなる予定でしたが、地形が険しい上に遠回りになることから大崩海岸 ― 藤枝宿 ― 島田宿へと変更され、最終的には大崩 ― 焼津 ― 島田宿がルートとして選ばれることになりました。このため、1889年に開業した藤枝駅は宿場町から3キロほど離れた位置に設けられました。なお、これに関して蒸気機関車の煙や火の粉を心配した住民が線路の建設を拒んだ(鉄道忌避伝説)という俗説がありますが、当時の新聞記事や県知事への上申書には藤枝宿で積極的な誘致運動があったということしか記録されてなく、反対運動があったという証拠はまったく発見されていません。
 駅が設置されなかったことで宿場町や商業地としても停滞を余儀なくされ、交通要衝からの転落に焦る藤枝でありました。しかし、藤枝と相良方面を結ぶ軽便鉄道「藤相鉄道」構想が当時東海道本線の乗り入れで活況を呈しはじめた焼津から南下して相良、遠州横須賀を経由し中泉(現・磐田市)に至る「駿遠鉄道」の構想に打ち勝ち、1913年、藤相鉄道が旧宿場町に通じ、藤枝本町駅、大手駅等が設けられました。これにより、藤枝は商業地として発展することとなりました。

~大手界隈~

 左の図は藤井誠氏所蔵「田中城内外之図」の大手の部部分であり、この図には、「明治之辰年六月中本多紀伊守殿ヨリ山田市郎左衛門殿工引渡ノ際私二写ス図也、明治十六年三月写し田中三番町某氏」という詞書がある。大手は文字通り田中城の大手で、通りには木戸があり、番所があり、町奉行所があって、馬たて、用水などもそろっていた。また、城に向かって右側の、源昌寺北隣には牢屋があり、東海道と並行する裏通りには「町同心丁」があった。そして、明治初年には大手口に邏卒がたむろしていたという。江戸時代大手は警備の町であり、明治になってもその名残がかすかに残ったのであった。

 藤枝にはこうした城下町としての歴史があるとともに宿場町としての歴史や伝統もある。それを最も象徴的に物語るのが「下伝馬」の存在である。田中城主酒井侯が駿府に出向くためには上伝馬が不便だったので大手口に隣接する部分に下伝馬を設けたのだった。下伝馬の問屋場は秋山医院の向いで、ここは明治時代三階の警察署が建てられたところでもあった。大手と下伝馬は江戸時代から城下町が宿場町と交り、独自な空気を醸した町だった。その伝統は明治に受け継がれ、この一帯が近代藤枝誕生のメッカとなった。
 下の図は、小林初蔵さん(明治三八年生まれ)、小山政橘さん(明治三一年生まれ)山田静太郎さん(明治三五年生まれ) の記憶によって復元した明治未年の大手、上伝馬の図である。これによると、まず、益津、志太両郡時代の郡役所が大手通りにあったことがわかり、さらに、税務所、警察署、カトリック教会、プロテスタント教会、共盛銀行、藤枝銀行、馬車、人力車、本屋、歯科医、内科、外科医院などが集中し、近代藤枝の中心地として殷賑をきわめていたことがよくわかる。また、図の中に「長唄師匠」が二軒もある点は芸所藤枝の特徴を語っておもしろい。


 この他、田中城址には、田中高等小学校が置かれ、後に郡立藤枝農学校もここに開かれた。観音山の南下には徳川幕府の儒学者永井醇の開いた育英舎(後に育英塾と改称、明治四五年廃校) があり、多くの俊秀を育てた。この一帯は志太近代教育の発祥地と言ってもよい。ここには、言うまでもなく田中藩日知館以来の伝統が生きていたのである。
 『藤枝市史』によると、「明治六、七年頃より蒸汽船が発達し、海上交通の安全性が増してくると、大量安価に輸送できる船を利用することが盛んになり、陸路は藤枝から焼津までになり、焼津港は茶、蜜柑の移出港としてにぎわった。焼津港を利用するために藤枝の商人たちは、焼津港への道路として便利な大手付近に茶商店を開くようになり、茶商人の中心は、大手に集まっていた。」とある。実は、藤枝と焼津港のかかわりは、田中城の運河、六間川時代からのもので、それが近代的展開を示したのだった。たしかに、下伝馬にはお茶の大商店が数軒あった。中でも笹野徳次郎は渡米して茶の市場を開拓するなど茶の貿易商として藤枝茶の名を高からしめた功績は大きい。

(ふるさとの想い出写真集 明治大正昭和藤枝 野本寛・八木洋行 共編より抜粋)


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大正時代


大正10年(1921)頃 上伝馬町並覚え
藤枝文学舎を育てる会 作成

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昭和時代


昭和10〜20年頃 藤枝・新地界隈覚え
藤枝文学舎を育てる会 作成

 太平洋戦争終戦後、藤相線、中遠線沿線には都市部からの買出し客が殺到しました。元々農業・漁業とも盛んな地域のため、食糧の買い出し先として絶好だったのです。戦前の苦境が嘘のように、両線は超満員が続き、区間開業を経て1948年に両線は結ばれ、新たに「駿遠線」と呼ばれることになりました。 戦後の混乱が明け、日本の高度経済成長が始まると同時に、モータリゼーションが鉄道に襲いかかりました。特に鉄道の利点である大量・高速輸送の点で欠陥を持つ軽便鉄道は脆く、1950年代後半から1960年代にかけ、次々に姿を消していきました。1950年代以降、貨物輸送の主流はトラックへ移行し、またたとえ車輌運用を考慮しても、全線維持は採算に合わなくなっていき、1964年に藤枝市街区間の大手線が廃止され、藤枝の軽便鉄道は終焉を迎えました。軽便鉄道もなくなり、国道一号線も宿場町沿いを通っていないことから、商店街としての藤枝宿も活気が失われていきました。

藤枝の地名について

 宿場町の名前でもあり、市の名としても残る「藤枝」の地名起源には多くの人々が関心を寄せるのであるが、実のところその解決は容易ではない。
 若一王子神社と深いゆかりを持つ成瀬家文書の中に、源義家の歌として、「松に花咲く藤枝の一王子 宮居ゆたかにいく千代を辺」という歌が伝えられ、義家が当地の若一王子神社の前を通過した際、松の枝に藤の花ぶさがみごとに映えているのを見て作ったという伝承もあり、これが藤枝の地名起源であるという説もある。

●春をまつなげきは誰もあるものをおなじ枯葉の藤枝のさと
(参議飛鳥井雅経『明日香井集』藤枝にて)
●前島の市には波のあともなしみな藤枝の花にかへつつ
(源光行『海道記』貞応二年・前島をすぐるに波はたたねども藤枝の市をとをれば花はさきかかりたり)

などによると、すでに鎌倉初期には「藤枝」という地名が広く用いられていたことがわかる。しかも、藤枝という優美な地名は、旅する文人に歌枕的な魅力を感じさせていたことも推察される。義家作と伝えられる歌にもそれが見られる。  大正五年に刊行された『静岡県志太郡誌』に注目すべき見解がある、「飽波の地たる上下に分れし大郷にて、藤枝は其小地名、今の上伝馬の内家数僅に一七戸ありし地を爾呼びたるものの如し。そは瀬戸川の分れ、瀬戸川の東堤防に沿ひて流るる小川を藤枝川といふより、その近傍の地を爾呼びたるものにて、藤枝は淵枝の謂なるべきか。」  瀬戸川左岸の渓口部の淵、現在の金吹橋のたもとの淵は、堤防が完備する前はおそらく水霊を祭る場であったと思われる。「フチ」は「淵」を意味するとともに、古代においては水霊をも意味した。淵枝が藤枝になって行った経過は大井川町藤守の場合と同じである。大井川の水霊を守り祭る「淵守」が時の流れの中で「藤守」となっていったのである。①川の名→②小字の名→③市の名→④宿場の名→⑤町名→⑥市名、と「藤枝」という名は包摂範囲を拡大していったのだった。地名には拡大型のものが多い。例えば、「駿河」は①駿河郷→②駿河郡→③大化以前の国名は(富士川以東)→④大化以後の国名(廬原国も含む)。こうして拡大を重ね、後に大井川以東をすべて含むようになり、「駿府」などという地名も生むに至る。「大和」が日本国の代名詞として使われるのも同じ現象である。藤枝の地名起については今後も考証を重ねる必要があろう。

(ふるさとの想い出写真集 明治大正昭和藤枝 野本寛・八木洋行 共編より抜粋)

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藤枝宿にまつわる伝説

【きつねの膏薬】

 昔、瀬戸川に橋が架けられていなかった頃のある秋の夜更け、川庄屋富岡屋の表戸を叩くものがあった。主人が出てみると若い娘がどうしても向こう岸まで渡してほしいと立っている。川は浅いし若い娘のことだからと主人自ら肩にのせて向こう岸まで渡り切り、渡し賃をもらった。ところが一枚の枯葉、「オノレ」と短刀で切り落としたものを見てみると狐の足首だった。それを拾って家に帰ると、先程の娘が又来て傷の妙薬とその作り方を教える代わりに足首を返して下さいと泣いてたのむので庄屋は足首を返してやった。娘(狐)の置いていった薬は不思議によく効いたので、富岡屋秘伝「きつね膏薬」として売り始めたところ大そうな評判になった。

【青池の大蛇】

 今から800年も昔の話です。岡出山のふもとに粉川長楽斎という長者が住んでいました。長者には賀姫というかわいい娘がいて、家族三人幸せに暮らしていました。
 その当時、長者の屋敷から岡出山を越えて、南側にマコモ池(今の青池)という大きな池がありました。そして、この池の底には昔から大蛇が住みついていました。
 この大蛇が16歳の美しい賀姫に恋をしてしまいました。大蛇は美少年に化けると、毎日姫に会いに通いました。そして、ついには賀姫をだまして池の中に引き入れてしまいました。
 一人娘を奪われた長者は大そう怒り、池の中に焼いた石やどろどろに溶かした鉄などを流し込んで大蛇を退治しました。それから自分の屋敷をお寺にして賀姫の冥福を祈りました。これが今の長楽寺で、裏山には大蛇が通ったといわれる道が今でもはっきりと残されています。

【偽橋】

 昔、一人の公家が年老いた母とともに駿河国へ流れてきました。毎日糸を紡いで貧しい生活を送る母の姿を見るに忍びず、息子は遠くへ働きに出かけました。息子が帰ってきたときに母は既に亡くなっていて、息子は嘆き悲しみ母への供養にと貯めたお金で橋を架けました。すると不思議なことに、一夜のうちに橋の柱に「生きてだにかけて頼まぬ露の身を死しての後は偽りの橋」という歌が彫られていました。今の本町一丁目と二丁目の境あたりに架かっていた橋にまつわる伝説です。

【黒犬物語】

 昔、賭けごとの大好きな田中城の城主・本多公は日本一強い土佐犬「シロ」を自慢にしていた。ある日、鬼岩寺に飼われていた神犬クロと咬み合いの勝負をさせよ、と命令が下った。しかし、クロは城主自慢のシロをわけなく破ってしまった。城主は怒り、このクロを殺そうとした。クロは大勢の家臣に追われ、ついに神井戸に飛び込んで死んだ。
 その瞬間、井戸の水が天高く吹き上がり、幾万ともない神犬があらわれ、一斉に吠えたてたという。城主は恐れおののき、クロを祀る社を建てて神犬の霊を鎮めた。以来、「死してなお負けずの神」として黒犬信仰の風習がおこり、安産と勝負ごとを叶える神とされたという。

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